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大正時代を知っていますか?⑥ 軍人に投票権がなかった「普通選挙」

 「日本国憲法の三大原則」とは、基本的人権の尊重、平和主義、国民主権のことですが、三大原則というのは憲法のどこにも書かれているものではなく、例えば、象徴天皇制度など、他にも重要な原則はあります。さて、基本的人権の尊重、平和主義は何となくわかるのですが、「国民主権」とは具体的に何を指しているでしょうか。実際、「国民が政治の主人公である」というような曖昧な説明が多いのですが、実は憲法には「国民主権」という用語
そのものは出てきません。
 実は「国民主権」の意味するところは、普通選挙による議会制民主主義のことです。なぜなら、「国会は国権の最高機関」であり、「国の唯一の立法機関」だからです。「国民主権」とは、無責任な世論に全てを任せるということではなく、より多くの国民が普通選挙により代表者(議員)を選び、その代表者が責任を持って政治を行うということです。「国民主権」という曖昧な用語は、大日本帝国憲法が「天皇主権」であったとするドグマに対応する言葉として便利だから多用されていますが、それを本当の意味で行使するためには、選挙を大切にすることに尽きると思われます。
 ところで「普通選挙法」が成立したのは、大正14(1925)年3月、第1次加藤高明内閣の時です。普通選挙を時期尚早とした原敬内閣の後、同じ立憲政友会の高橋是清内閣を挟んで、加藤友三郎、山本権兵衛の2人の海軍大将が相次いで組閣しました。加藤、山本両提督は、普通選挙実施への研究を進めていました。ところが山本内閣が総辞職した後、大命を拝受した樞密院議長・清浦奎吾は、政党を無視して貴族院議員を中心に内閣を組織したのです。これ反発した護憲三派(憲政会、政友会、革新倶楽部)は、大正13年5 月に行われた第15 回衆議院議員総選挙で、普通選挙の実施を選挙公約に掲げて戦いました。結果は憲政会が大勝し、他の政党は議席を減らしましたが、護憲三派全体で過半数を確保し、清浦内閣を総辞職に追い込んだのでした。
 普通選挙が争点になった総選挙は原内閣の時にもありましたが、この時は、普選反対の与党政友会が大勝しました。ところが同じ制限選挙で行われたこの総選挙では、普選賛成の護憲三派が勝ちました。ここには、選挙民の意識の変化も見られます。
 護憲三派連立の加藤(高)内閣は、元首相の高橋、後に首相になる若槻礼次郎、犬養毅、幣原喜重郎らを要する強力な布陣で議会に臨み、選挙公約であった「普通選挙法」を成立させて、納税資格を撤廃し、25 歳以上の男性に選挙権を与えました。
 教科書では、女性に参政権が与えられなかったことを理由に、ようやく実現した「普通選挙法」に批判的ですが、確かにこれにより、憲政が一歩前進したという事実をなぜ評価しないのでしょうか。
一方、教科書が見逃している重要な点があります。それは、女性同様、現役の軍人に選挙権が認められなかったということです。公職にある軍人に被選挙権がないのは当然にしても、投票権すらなかったのです。軍人は政治に関わらないというのが「軍人勅諭」による建前ですが、政治的な意見を述べ得なかった軍人の欲求不満が、昭和戦前期に政党の足を引っ張る在郷軍人団や右翼団体などを通じて噴出したような気がします。
 軍の横暴による大正デモクラシー体制の崩壊を、すべてそのせいにすることはできませんが、彼らが選挙権を持っていなかったことは記憶されておくべきだとは思います。

連載第21 回/平成10 年9月5日掲載

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