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日本人の大発見④ 青い目の内助の功で危機を乗り越えた科学者・高峰譲吉

 こういうことを書くと、ジェンダー論者からはいろいろ言われそうですが、やはり「内助の功」といえば奥ゆかしい日本女性を思い浮かべます。しかし、アメリカ人の夫人に支えられ、世界的な業績を残した科学者がいます。
 高峰譲吉は、嘉永7(1854)年に現在の富山県高岡市に生まれ、加賀藩の藩校、長崎留学を経て、明治2(1869)年に大阪医学校(現大阪大学医学部)に入学し、在学中に大阪舎密学校(大阪舎密局。後の旧制第三高等学校)にも通いました。舎密(せいみ)とは化学のことで、高峰はそこで化学の面白さにひかれ、その道を歩むことに決めました。
 明治8年に工部大学校(現東京大学工学部)ができると、そこで応用化学を専攻し、明治12年に首席で卒業しました。すぐにイギリス留学を命じられた高峰は、グラスゴー大学などで研究を重ね、多くの工場を訪ねて当時のハイテクを学びました。帰国後は農商務省などに勤め、和紙、清酒など、わが国の伝統産業の改良に努力しました。
 エリート官僚の道を歩み始めた高蜂の人生を変えたのは、明治17年のアメリカ出張でした。万国工業博覧会で出品された燐鉱石を見た高峰は、それで化学肥料を作るごとを思いつきました。そのアイデアの有効性を確認した後、高峰は明治の大実業家・渋沢栄一、大倉喜八郎らにその事業化を勧め、東京人造肥料会社(現日産化学株式会社)が設立されるに至りました。実は、この出張の時、高峰は実業家の娘キャロライン・ヒッチと恋に落ち、3年後に結婚しています。
 東京で新婚生活をおくって間もない明治20年、義父から「アメリカのウイスキー業者が、高峰の持つ清酒醸造法の特許に興味を持っている」という電報が届きました。日本酒は米に麹を加え、ウイスキーは大麦に麦芽(モルト)を加えます。その原理は同じです。高峰が持つ米麹は発酵を助ける酵素が強く、それが業者の目に留まり、高峰に技術指導を願い出たのです。
 「日本人の発明を世界に知らせるよい機会だ』と、渋沢に激励された高峰は、渡米を決意しました。事業化のために現地に設けた工場で、ふすま(小麦の殼)を使った麹の製造に成功した高峰でしたが、モルト業者の反対運動や放火による工場の火災、契約を結んだウイスキー会社の解散などで計画は頓挫しました。過労からくる肝臓病で倒れた高峰を献身的に看病し、また内職で家計を支えたのは、妻・キャロラインでした。
 一時は命さえ危ぶまれた高峰でしたが、回復後、その麹が生み出す強力な酵素を取り出すことに成功しました。明治27年のことです。それは、消化酵素として有効な物質で、「タカヂアスターセ」と名づけられ、明治32年にアメリカのパークデピス社から、大正2(1913)年には、後の三共株式会社から日本でも売り出されました。
 パークデピス社の顧問となった高峰は、ホルモン抽出実験に従事し、明治33年には、世界で初めて、牛の副腎からホルモン(アドレナリン)の結晶を取り出すことに成功しました。
 その後は理化学研究所の設立に尽力するなど、在米の身ではありましたが、わが国の科学技術発展の土壌づくりにも力を注ぎました。
 晩年は帰国したいと願っていた高峰でしたが、大正11年、最愛の妻と息子に看取られて、ニューヨークで68歳の生涯を閉じました。科学者として、実業家として、まさに日米の懸け橋となった生涯でした。

連載第121回/平成12年10月4日掲載

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