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自虐教科書の病理⑤ 満州事変〜対テロ戦争の側面を無視する教科書

 満州事変が終わったということを殆どの教科書は教えません。これは、支那事変を経て、大東亜戦争が終結するまで、日本が絶え間なく中国を侵略していたという、「15年戦争史観」に呪縛されているからです。満州事変が、昭和8(1933)年5 月に結ばれた、塘沽停戦協定で終結しているのは歴史的事実です。「15 年戦争」とは、わが国が中国を侵略し続けていなければ困る人たちが紡ぎ出したフィクションなのです。
 確かに満州事変は、大きなターニング・ポイントになったのですが、決してポイント・オブ・ノー・リターンではなかったのです。その後、支那事変が始まる昭和12年までの間、政府が中国との国交調整に努力していたことさえも、教科書は無視しているのです。
 さてその満州事変は、関東軍の石原莞爾や板垣征四郎らが計画した陰謀・柳条湖事件に端を発しています。もちろんこれは非難されるべき事柄です。しかし、教科書のいうように、昭和初年の経済的逼塞状況を打開するために企てたというのは間違いです。この計画は若槻礼次郎内閣にとって寝耳に水でした。陸軍中央部はこの計画を察知し、中止を勧告するために建川美次少将を「止め男」として派遣しましたが、彼らは計画を早めて事件を起こしてしまったのです。    
 関東軍はなぜ満州事変を起こしたのでしょうか。実は、ソ連が成立して以来、ソ連は中国共産党を支援し、満州において暴力的反日闘争を展開していたからなのです。事変が起こった昭和6年までに、大小合わせて100 件もの暴動事件が起こっています。中でも昭和5年の間島事件では、日本人居留民44人が殺害されています。それ以外にも外交交渉が必要になった問題は、昭和2年から5年にかけてだけでも、240件にのぼっていました。彼らが妨害を加えた日本の権益は条約に守られたものであって、英国やフランスが中国本土で持っていた権益と何ら変わりがないものだったのです。満州の日本人居留民(もちろんそこには、当時日本国籍を有していた多くの朝鮮人も含みます)は、大きな不安と危機感を抱いていました。それが満州事変につながります。満州事変は「対テロ戦争」だったのです。後に満州事変と満州国の
建国を非難する国際連盟の「リットン報告書」も、我が国の特殊権益の存在は明確に認めているのですが、教科書はそれすら無視しています。
 問題は、関東軍が起こした事件を、政府も陸軍も収拾することができなかった点にあります。
 例えば、命令がなかったにもかかわらず、無断で国境を越えて満州に兵を進めた朝鮮軍司令官・林銑十郎大将は処分されることなく、後に総理大臣にもなっています。林の行動は明らかに「統帥権干犯」でしたが、政府も軍
中央部もこれを追認してしまいました。
 柳条湖事件の真実を知らなかった国民は、関東軍が満州の治安悪化を放置していた張学良を満州から放逐したことに、大いに溜飲を下げました。そして満州国承認を渋っていた犬養毅立憲政友会内閣が、海軍将校らによるテ
ロ(5.15事件)に倒れた後成立した斎藤実(海軍大将)の挙国一致内閣を国民は大歓迎します。大衆が「民主化」や政党政治の継続を求めていたならば、当然起こるべきはずの「第3次護憲運動」は起こりませんでした。
 満州事変の背景に何があったかということ、そして大衆の支持が、いわゆる「軍国主義」に拍車をかけたことを教科書は無視することで、国際紛争にどのように対応すべきか、テロリストにはどのように立ちう向かうべきかという教訓を、歴史から学ぶことを放棄させているのです。

連載第47回/平成11年3月10 日掲載

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