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外交家列伝③ 小村寿太郎(1855~1911年)

 明治 34(1901)、清国で義和団の乱が起こりました。権益と居留民を守るため、日本をはじめ、欧米諸国が連合国を組織して鎮圧し、清国との間に北京議定書を結びました。
 ところが、ロシア軍だけは、そのまま満州占領を続け、清との密約で既成事実にしようと図ったのです。これは我が国の安全保障にとって大きな脅威でした。また、三国干渉以来、韓国政府にもロシアの勢力は浸透しており、ロシアとの対立は抜き差しならぬ状況になっていました。
 日本政府内では、ロシアとの関係を巡って意見の対立がありました。一方は、国力の差を考え、ロシアとの戦争は避けるべきだとして、満州の権益をロシアに譲る代わりに、韓国を確保しようとする考え(満韓交換論)で、主唱者は伊藤博文でした。もう一方は、英国が我が国に好意的であることを武器に、ロシアとの一戦を辞さずとする積極的な考えでした。主唱者は時の首相・桂太郎、外相・小村寿太郎らでした。
 小村、は安政2(1855)年に飫肥藩(宮崎県)の藩士の家に生まれました。第1回文部省留学生としてハーバード・ロースクールに学び、帰国後は
裁判所勤務の後、大審院判事となりましたが、間もなく外務省に転じました。私生活の問題などから閑職に甘んじていましたが、明治37年、陸奥宗光外相に駐清公使に抜擢され、その才能は開花しました。そして翌年、第1次桂内閣に外相として入閣したのです。
 小村は、ロシアを牽制するために日英同盟協約の調印を推進してこれを実現に導き、伊藤らの対露妥協策を拒否しました。そして、当初から開戦を心に秘めてロシアに対して、満州から撤兵するよう交渉をしました。
 小村 が決意したとおり、日露両国は明治37(1904)年に衝突し、日露戦争となりました。戦争中小村は「講和条約意見書」を提出し、韓国を我が国の主権範囲とし、満州もある程度まで我が国の利益範囲とせねばならないと主張していました。
 自らポーツマス講和会議の全権となった小村は、ロシア全権のセルゲイ・ユリエビッチ・ウィッテ元蔵相との不本意な交渉結果に業を煮やし、政府に対して交渉打ち切り(つまり、戦争継続)を具申しました。しかし、桂や伊藤から、戦争終結を第一とする訓令を受け取り、不本意な調印を強いられたのです。その直後彼は病に倒れます。外交官として当然のことをした小村ですが、その苦衷ははかりしれません。
 皮肉なことに彼は帰国後、新聞報道などにより「対露大勝利」と確信していた国民から、1円の賠償金もなく、占領していた北樺太さえ放棄したとして非難の嵐にさらされたのです。国民は講和条約に反対して抗議の集会を開き、特に、日比谷焼き打ち事件は政府を震撼させました。
 その直後、小村は留守中に、米国の鉄道王エドワード・ヘンリー・ハリマンと桂の間で交わされた東清鉄道共同経営の覚書を反故にします。数少ない戦利品を米国にかすめ取られることに、小村は耐えられなかったのではないでしょうか。タカ派・小村の面目躍如といったところです。

連載第26 回/平成10 年10 月6日掲載

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