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小学校教科書が歪めた国史② 大和時代~皇室の役割や聖徳太子の「独立宣言」を過小評価した罪


 皇室の政権が大和に、いつ誕生したのかは定かではありません。しかし、稲荷山古墳(埼玉県)出土の鉄剣や江田船山古墳(熊本県)出土の大刀に「獲加多支鹵大王」(雄略天皇)の名前と辛亥年(471年と考えられています)という干支が刻まれていることから、すでに5世紀半ばには、皇室の勢威が、東は関東から、西は九州地方まで及んでいたことが分かります。ところがほとんどの教科書は、雄略天皇には触れずに大和時代の記述に入っています。古代における天皇の事績を明確に記述したくないようです。
 さて、この時代に取り上げられるべき人物として学習指導要領が提示しているのは、聖徳太子、小野妹子、中大兄皇子、中臣鎌足で、そこから暗示されるのは、遣隋使の派遣と大化改新です。遣隋使の派遣により、大陸の先進文化と、強い権力を持った中央政府の存在を知った皇室と中臣氏が、政治を壟断していた蘇我氏を滅ぼし、政治改革に着手するというストーリーは、確かに重要です。しかし、それだけでは不充分です。
 教科書は遣隋使の派遣について次のように書きます。「(聖徳)太子は、小野妹子らを中国(隋)に送って(遣隋使)、国の交わりを求め、中国の政治のしかたや文化を取り入れようとしました」(大阪書籍)。
 遣隋使派遣の目的は、教科書が言うような、単なる文化輸入ではありません。聖徳太子が小野妹子に持参させた国書には次のように書かれていました。「日出る処の天子、書を日没するところの天子に致す。恙なきや」。
 これを読んだ隋の皇帝・煬帝は烈火の如く怒りました。東夷の国から、対等の立場で手紙が届いたからです。支那の歴代皇帝は、自らを世界の帝王と考え、周辺地域は蛮族の住むところと考えていました。王とは、皇帝に任命された野蛮人の「酋長」に過ぎず、皇帝とは天と地ほどの差があるのです。その蛮族の王から、無礼な手紙が届いたのです。
 これは聖徳太子の賭けだったのかも知れません。或いは、高句麗(北朝鮮、満州にあったツングース系の国)との戦いに忙しい隋は攻めてこない、と計算した上での戦略だったのかも知れません。いずれにしても、聖徳太子は、それまでのように、支那の皇帝に貢ぎ物を持参して、日本列島の支配権をいただく、というような関係(册封体制)を断ち切ることに成功したということです。ここでは我が国が「独立宣言」し、支那の支配体制から離脱したということがまずは重要なのです。
 確かに、その後も律令制度など、支那の文物を輸入したのは事実ですが、それを取捨選択し、朝鮮半島の国のように、支那の属国であることを潔しとせず、彼らの文化を鵜呑みにはしなかったところに我が国の独自性が見られるのです。
 支那の文豪・魯迅の弟で、後に日本文化研究家となった周作人は、日本人が支那から様々なものを学びながら、宦官(去勢された役人)、纏足、八股文(複雑に技巧を凝らした文章)、アヘンを輸入しなかった日本人のセンスを賞賛しています。まさにそこが、重要なところです。
 我が国にはインディペンデンスデイ(独立記念日)はありません。しかしながら、聖徳太子が小野妹子に持たせた手紙は、まさに「独立宣言文」だったのです。そして、それは册封体制に基づく東アジアの秩序から一歩外へ踏み出し、日本が実利下独自の道を歩み始める、大きなきっかけとなったのです。

※各社教科書の記述は、平成12(2000)年度版によります。
連載第94回/平成12年3月22日掲載


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