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教科書が教えない軍人伝⑨ 米内光政(1880~1948年)

 大東亜戦争終結時の陸軍大臣、阿南惟幾の名前は、自決したこともあって結構知られていますが、最後の海軍大臣が米内光政だったことを思い出せない人も多いのではないでしょうか。
 明治13(1880)年、米内は岩手県盛岡市に元南部藩士の家に生まれました。明治32年に海軍兵学校に入学し、日露戦争中は中尉として実戦を経験しました。その後、海軍大学校を経て、ロシア大使館付武官補佐官、「陸奥」艦長、第3艦隊司令長官、佐世保・横須賀鎮守府司令長官などを歴任し、昭和11(1936)年末に連合艦隊司令長官に就任しました。
 それもつかの間、2 ヶ月後の昭和12年2月に、米内は初めて海軍大臣に就任することになります。林銑十郎(陸軍大将)首相は組閣に際して、海軍の中でも強硬派で知られた末次信正(第1次近衛文麿内閣で内務大臣になります)を望んでいましたが、海軍は穏健派の米内を選んだのでした。米内は次官に山本五十六を充て、2.26事件以来の陸軍主導の政治に何とか歯止
めをかけようとしました。
 米内は、次の第1次近衛文麿、平沼騏一郎内閣にも留任しました。昭和 12 年、近衛内閣の時に支那事変が勃発します。外交関係の断絶も、宣戦布告もなく、「事変」であったにも関わらず、政府は官制の改正を行って戦争時にのみ置かれる大本営の設置に踏み切りました。米内はこれを阻止しようと努力しましたが、果たせませんでした。
 平沼内閣の時には、陸軍が乗り気になっている無条件での日独伊三国同盟締結に米内は猛烈に反対しました。なぜなら、英米と対立を深めているナチス・ドイツと手を結べば、対米戦争に巻き込まれる可能性が高まるからです。右翼の壮士が海軍省に怒鳴り込んでくることもありましたが、米内・山本そして井上成美軍務局長のトリオは、文字通り命を張って同盟阻止へ力を尽くしました。
 結局、しびれを切らしたアドルフ・ヒトラーは、電撃的に独ソ不可侵条約を締結し、ナチスとソ連共産党が同じ穴の狢であったことを全世界に示しました。これを見た平沼は内閣を投げ出しました。その後軍事参議官となった米内でしたが、昭和15年1月、おそらくは昭和天皇の意向により、内大臣湯浅倉平が米内を推挙し、大命を受けて組閣することになりました。この際米内は自ら現役を退いています。
 当時、第2次世界大戦は既に始まり、侵略者であるドイツとソ連がヨーロッパを席巻していました。英仏の敗北を確信した陸軍は、「バスに乗り遅れるな」とばかりに、ドイツとの同盟論を再燃させました。そして畑俊六陸相を辞任させて、同盟に消極的だった米内内閣を潰してしまいました。
 日米開戦に際しても「ジリ貧はドカ貧に勝る」と主張して終始反対した米内でしたが、歴史の歯車は米内の思いとは逆方向に回り始めました。戦局悪化後、東条英機首相は米内の入閣を望みましたが、彼はこれを峻拒し、事実上東条に引導を渡しました。
 東条内閣総辞職後、小磯国昭陸軍大将と共に組閣の大命を受けた米内は、現役に復帰して副総理格の海相となります。そしてポツダム宣言受諾後も、東久邇宮稔彦王内閣、幣原喜重郎内閣に留任し、帝国海軍の最後を見届けたのでした。

連載第71回/平成11年9月8日掲載

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