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なにわの近現代史PartⅡ⑥ 浪花節誕生す

 大正時代、デモクラシーと共に、ショッピングや娯楽の楽しみが広がり、人々の生活は豊かになりました。当時、庶民の三大娯楽に数えられたのは、芝居、活動写真そして浪曲(浪花節)でした。その原型ともいうべき形態は「浮連節」という演芸でした。
 明治16(1883)年、天満宮の近くにあった天満の席という粗末な小屋で、新しい演芸が人気を呼んでいました。
 三味線と小気味良い合いの手、五七調のリズムと独特の節回し。さらに物語の途中で会話や説明も入るというわかりやすさ。演じている男は京山恭安斎。後に浪曲の祖と仰がれることになる人物です。
 恭安斎は幕末に、紀州徳川家の御殿医の家に生まれました。芸事好きが高じて勘当され、出家しましたが、間もなく還俗して、都京徳という芸人と同行するようになりました。京徳の芸は、「チョンガレ」と呼ばれた門付け芸です。もとは念仏に節を付けたものだったといわれています。これに娯楽的な要素が入り込み、九州祭文、江州音頭、八木節などが発生したといいます。上方祭文もその一つで、長い歌を連ねるので「長歌連歌連節」ともいいましたが、浪速っ子お得意の省略で「チョンガレ」と呼ばれるようになりました。
 もともと美声だった恭安斎は、京徳に勧められて、自らもチョンガレ芸人になりました。明治初年のことです。しばらくして彼は、浪花伊助という同業者が「説明入り」でチョンガレを語るのを聞き、それにヒントを得ました。伊助の説明はごく簡単なものだったのですが、京安斎はそれをしっかりとした内容にし、間延びした調子を三味線で整え、ついに、京安斎流の浮連節を誕生させたのです。
 間もなく、上方では広沢岩助、吉田岩吉、吉田久丸らが人気を博すようになりました。伊助が東京へこの芸を伝えて人気を呼びました。東京では浪速から来たということで「浪花節」と名付けられたようです。
 上方で浪曲全盛期を築き上げたのは、「謡曲」にならって「浪曲」という語を発明したという2代目吉田奈良丸でした。
 明治38年、東京で人気を博していた桃中軒雲右衛門が来阪し、中座で大々的に公演をすると、奈良丸は千日前にあった浪曲常打ちの愛進館で、全く同じ演目をぶつけて火花を散らしました。
 翌年、奈良丸は再び雲右衛門の公演にぶつけて、ひとり勇んで上京し、新富座を16日間満員にしました。凱旋した奈良丸を迎えた浪速っ子の興奮はたいへんなものでした。
 ところで、浪曲人気の消長は、戦争と重なると言います。演目は時代物が中心ですから、勇ましい侍が登場します。また教訓的なストーリーが多いのもその理由だと考えられます。日清戦争の時が最初のピークで、その後も戦争のたびに人気が上昇したようです。
 今日、大阪には浪曲の常打ちの劇場はありません。長く平和な時代が浪曲を衰退させたということだけではなく、ひとつの話をじっくり聞き、楽しむ
という余裕が、なくなってしまったということなのかも知れません。後継者が作成され、大阪生まれの演芸が復権してほしいものだと思います。

連載第58回/平成11年6月2日掲載

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