「ニューオーリンズ紀行2007」の巻(その2)
ニューオーリンズ・ダウンタウンの目抜き通り、キャナル・ストリートにある仕舞屋(しもたや)と化したビルである。
勿論、ハリケーン・カトリーナの被害の痕だ。空港からダウンタウンに向かうタクシーの車窓からも、窓ガラスが割れたままのビルや、板張りの建物をそこここに見た。あまり思い出したくないことだが、阪神淡路大震災の際に破壊され、しばらく放置されていた西元町のホテルの残像が頭によぎった。
ダウンタウンでこの有様なら、あの黒人居住区だった場所の現状は、推して知るべし。観光バスツアーのグレイラインでは、その無人になった被災地を見に行くツアーがコースに入っていた。
上の写真(2007年5月3日撮影)のように、当時復旧工事は進みつつあるようで、観光客も戻ってきていた。実際、筆者は観光目的ではないが、1万人規模のコンベンションに参加するためにこの街に来た。後日写真はアップするが、かのバーボン・ストリートは、オン・シーズンではなかったので、24年前(1983年)に訪れたあの夏ほどの混雑ではなかったが、それなりの賑わいだったし、予約を入れようとしたクレオール料理のレストランには、1ヶ月前から一杯だと断られたくらいだ。
しかし、下の写真のような、夜の無人ビルの不気味さは、いただけない(2007年4月30日撮影)。
昔、琵琶湖西岸の堅田のあたりに、「幽霊ホテル」というのがあった。1970年の大阪万博の客を見越して建設しかけたが、途中で会社が倒産したか何かで、そのまんま雨ざらしになっていたものだ。この写真は、そちらを思い出した。
そんな状態でも、さすがはジャズの街。
中高生と思しき黒人の少年たちが、街角ですばらしい演奏を聞かせていた。冒頭の写真がそれだ(2007年4月30日撮影)。こちとらジャズなどわかりやしないのだが、それでも思わず足を止めて聞き入ってしまった。
被災した黒人の多くが、この街を離れ、住み慣れない土地に暮らしていると聞く。筆者が当時住んでいたサクラメントも、以前に比べて黒人が多くなったなぁと思っていたのだが、ニューオーリンズからの被災者がたくさん疎開して来ていたらしい。
今はどうなのだろう。ジャズの響く街に疎開した人たちが戻って、元の生活が営まれていることを、心から願わすにはいられない。
(この項続く)
拙ブログ『無闇にアメリカに来てはいけない』より「新奥爾良紀行(その2)」(2007年05月16日 11:36付)に加筆修正した。