なにわの企業奮戦記③ チョーヤ梅酒株式会社
お腹が痛くなったとき、おばあちゃんが台所の戸棚から取り出して一口飲ませてくれる琥珀色の液体。その甘酸っぱい味と芳香…。筆者にはそんなイメージが梅酒にはありました。「梅酒は家で漬けるもの」と近年までは思われていましたが、今では酒屋やコンビニの店先に、各種の梅酒飲料が並んでいます。
「梅酒もお店で買う時代が来る」。そう信じて梅酒製造販売のパイオニアとなり、現在ではユニークなコマーシャルと共に全国的に有名になったのが、チョーヤ梅酒株式会社です。
創業者の金銅住太郎は、自家栽培の葡萄を原料に、大正3(1914)年からワインの醸造を行い、後にはブランデーも製造するようになりました。ちなみに、昭和30年代頃までは、大阪府の葡萄生産高はあの山梨県についで全国第2位で、その中心が羽曳野市でした。近鉄南大阪線駒ヶ谷駅周辺(下の写真は、昭和38年ごろの駒ヶ谷駅周辺です)に、最盛期には40社ものワイン醸造工場があったといいます。
大東亜戦争中は、米が貴重品だったため、当然日本酒も貴重品でした。意外な話かも知れませんが、その代わりによくワインが飲まれていたのです。そういえば永井荷風の日記『断腸亭日乗』の終戦の日の項にも、「葡萄酒」が登場していたように思います。戦後、日本酒の代用品であった国産ワインの需要は激減し、醸造所の中には廃業するところが増えました。今日では「梅酒のチョーヤ」ですが、同社も、かつては蝶矢洋酒醸造という社名のワイン醸造所の一つでした。
蝶矢が存亡を賭けてワイン、つまり洋酒から梅酒に主力商品を変更するのは、住太郎のヨーロッパ旅行がきっかけでした。本場のワインを口にした住太郎は、大きなショックを受けました。「ワインではフランスに勝たれへん」。
そして長男和夫氏(写真は、二代目社長となった金銅和夫氏)、次男信之氏、三男幸夫氏(元代表取締役会長)に、「世界一になれるもんを探せ」と、新製品の開発を命じました。
桃やカリンなど、様々な果実酒の可能性について研究を重ねた結果、ついに梅にたどり着いたのでした。原料の安定供給を考えた場合、隣接する和歌山県が梅の産地であるということも大きな理由となりました。
昭和34年、商品第1号を販売し始めましたが、売れ行きは芳しくありませんでした。
「梅酒なんか売っとったら、会社つぶれまっせぇ」。
そんな同業者の嘲笑が聞こえる中、従業員が愛想を尽かして辞めてしまうということもありました。販売が伸び悩む中、梅酒販売の前に行った「本格派ワイン」の失敗が首脳陣らの頭をかすめました。当時我が国では「赤玉ポートワイン」など、甘味ワインが主流でした。これに抗して「普通のワイン」を世に問うたところ、全く売れませんでした。昨今のワインブームが嘘のようです。
しかし、「かつては自家製だった味噌や醤油も商品になった。梅酒もその例外ではない」という金銅家の信念は揺るぎないものでした。地道な努力と商品開発は、徐々に梅酒から、自家製健康酒のイメージをぬぐい去り、おしゃれな食前酒へと脱皮させ、市場に浸透していったのです。
チョーヤは昭和40年代にはすでに各国に梅酒を輸出し、現在、市場の6割以上を席巻しています。創業者が願った「世界一」は、梅酒によって実現されたのです。
※写真はいずれもチョーヤ梅酒株式会社提供。『大阪新聞』掲載時、旧サイトアップロード時に同社より使用許可を得ています。
連載第105回/平成12年6月7日掲載