見出し画像

なにわの近現代史PartⅡ③ 西南の役と商都大阪

 明治10(1977)年2月13 日、明治天皇が「堺県」に初めて行幸されました。堺県とは、廃藩置県の際、大阪府の大和川以南に設けられた県で、後に大阪府に合併されます。天皇の行幸には厳重な警備がつきものですが、東京から派遣された抜刀警官100人に加え、大阪鎮台(後の第4師団)の兵士600 人という物々しさです。
 天皇は地元小学校の授業をご参観になり、行在所となった河盛仁平邸(阪堺電鉄宿院電停付近)に入られました。実は、この屋敷の床下が1mほど掘り下げられ、そこにも抜刀隊が潜んでいたというのです。なぜここまで厳重な警備が必要だったのでしょうか。
 その日の深夜、行在所に太政大臣・三条実美がやって来ました。それに続いて内務卿兼参議・大久保利通、参議・伊藤博文らの政府首脳が駆けつけ、何とそこで御前会議が開かれたのです。会議は翌14日の午前3時頃まで続きました。天皇は仮眠をとられた後、もう1泊なさる予定を変更され、早朝にあわただしく帰京の途につかれました。
 狐につままれたような思いを抱いていた堺の人々がその理由を知ったのは、さらにその翌日のことでした。元参議・西郷隆盛がついに挙兵し、西南の役が勃発したのです。
 情報によれば、和歌山の陸奥宗光(彼も西郷同様、下野して郷里に引きこもっていました)が堺行幸中の天皇を拉致して、鹿児島へ奉じようとしているというのです。余りにも厳重な警備はそのためでした。
 明治6年に、西郷は官職を辞し、鹿児島に帰って、私学校を開いていました。彼を迎えた鹿児島は、次第に独立国の様相を呈し始めていました。佐賀や熊本などで散発的に起こった不平士族の反乱に危機感を抱いていた政府は、明治10 年1月、鹿児島にあった武器・弾薬を没収しようとしましたが、かえってこれが薩摩隼人たちを刺激し、西郷に挙兵の決心をさせたのです。
 結果はご存じの通り、官軍が苦戦しながらも西郷軍を鎮圧します。「百姓・町人の軍隊」に敗北したことは、不平士族に大きな衝撃を与えまし
た。武力での反抗は不可能だということがはっきりとしたのです。西南の役は反政府運動が、武力中心から、政治運動中心に転換する大きなきっかけとなったのです。
 一方大阪は、官軍の兵站基地となったおかげで、にわかに好景気になりました。大阪港が堆積物のために機能不全に陥り、川口居留地がさびれてしまってから、大阪経済は沈滞していたのですが、軍需物資の生産や輸送などの注文が相次ぎ、息を吹き返しました。
 ところで、明治11年には北浜に「株式取引所」(後の証券取引所) が誕生しています。その頃、政府が膨大な戦費をまかなう為に、不換紙幣を乱発したおかげで、激しい戦後インフレとなっていました。その影響で、翌年に始まった正貨(金銀貨)の取引が、大投機ブームを招きました。松方正義大蔵卿のデフレ政策が軌道に乗るまで、正貨は高騰を続け、大阪に多くの成金が生まれました。その中から近代的な起業家も誕生しました。
 西南の役は、商都・大阪の土台づくりに一役買っていたのでした。

連載第55 回/平成11 年5月12 日掲載

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?