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大正時代を知っていますか?② 民主化の懸け橋となった政党と藩閥の「連立内閣」

 一般に大正期においては、政党内閣=「善」、非政党内閣=「悪」、とされますが、余りにも杜撰な区別の仕方です。そもそも、白か黒かでレッテルを貼ることは歴史の理解を妨げることにしかなりません。
 大正2(1913)年2月、第1次護憲運動により第3次桂太郎内閣が倒れた後、薩摩閥の海軍大将・山本権兵衛に大命は降下します。護憲運動で勢いに乗る立憲政友会(政友会)は、山本からの提携の申し出に対して、軍部大臣以外の全ての閣僚ポストを要求しました。最終的に、外相ポストは断念しましたが、官僚の閣僚(高橋是清、山本達雄、奥田義人)を入党させることで合意に達しました。こうして、藩閥と政党の「連立内閣」が誕生しました。
 この第1次山本内閣は民主化を積極的に進めました。護憲運動の最中に、政友会の尾崎行雄(山本内閣との提携に反対して離党していました)が求めていた文官任用令の改正を断行し、政党人の官吏登用への道を拓きました。また尾崎と共に運動の牽引車であった立憲国民党の犬養毅が求めていた営業税の軽減も公約とし、山本内閣の基本方針は、護憲運動中の政党の要求とさほど隔たりがあるものではなかったのです。それに加えて、第2次西園寺公望内閣を瓦解させた軍部大臣現役武官制の改正をも断行しています。
 その後、大正7年9月に政友会の原敬が「本格的な政党内閣」を作りましたが、原が暗殺された後、高橋是清内閣を経て、再び「連立内閣」となります。大正11 年6月に成立した、加藤友三郎(海軍大将)内閣です。ここでも政友会は与党となります。同年6月21日付『大阪朝日新聞』は、「政党はついにそれ自身の墓場を、それ自らの手で掘るに至った」と手厳しく政友会を批判しましたが、加藤内閣は政友会の協力の下、衆議院選挙法調査委員会を発足させ、普通選挙の準備に取りかかりました。また、4月には陪審法を公布し、司法の民主化も一歩前進させたのです。
 翌年8月、加藤が現職のまま病没すると、再び山本が首班指名されました。山本は挙国一致内閣を組織するべく、後の護憲三派となる政友会、憲政会、革新倶楽部の3党に声をかけましたが、誘いに乗ったのは革新倶楽部だけでした。少数与党ではありましたが、第2次山本内閣も「連立内閣」には違いありません。そして、政党からただひとり入閣したのは普通選挙即行論者の犬養毅でした。勿論、入閣の条件は「普選断行」です。
 山本内閣は関東大震災の混乱の中にありながら、普選への道を模索し、10 月6日には、後藤新平内相、田健次郎農商務相、岡野敬次郎文相、平沼騏一郎法相、犬養逓信相との会議で「普選要綱案」を決定し、法制審議会に諮問しています。
 ところが大正12年12月、国会の開院式に向かわれる途中の摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)がアナーキストの難波大助に狙撃されという、虎の門事件が起こり、警備の責任をとって、山本内閣は総辞職してしまいます。
 こうして見ると、政党内閣ではないからといって、「悪」のレッテルを貼ることが一面的だということがわかります。藩閥と政党の「連立内閣」は、
確実にその後の「憲政の常道」への架け橋となっていたのです。

連載第17 回/平成10 年8月8日掲載

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