見出し画像

日本人の大発見⑧ 住友財閥の援助で基礎研究に没頭した物理学者・本多光太郎

 明治の初め、わが国はお雇い外国人から、近代文明や学問を学びました。物理学の世界もその例外ではなく、ジェームズ・アルフレッド・ユーイング(英)は、長岡半太郎らの世界的な物理学者を育てました。その系譜に連なるのが本多光太郎です。
 本多は明治3(1870)年、今の愛知県岡崎市の農家に生まれました。親代わりの長兄は家業の手伝いを期待しましたが、学問を志した本多は、帝国大学理科大学(現東京大学理学部)に進み、長岡、田中舘愛橘ら、新進の物理学者から教えを受けました。
 さて、理学関係のお雇い外国人が日本に来て興味を抱いたのが多発する地震でした。明治13年に起こった東京湾地震をきっかけに、その研究は本格化しました。当時の地震研究の中心は、地震観察と地磁気の測定でした。ユーイングが研究を深めたこともあって、地磁気を含む磁気研究が、日本の物理学界の主要テーマのひとつとなりました。
 田中舘は地磁気測定に力を注ぎ、長岡は磁気そのものの研究に従事しました。明治33年、パリで聞かれた第1回万国物理学会議で、長岡はニッケルと鉄の磁性について研究発表をしています。その時、共同研究者だった本多は、これを機に金属材料の磁気についての研究に足を踏み入れました。
 明治40年から4年間、本多は欧州に留学しました。ベルリン大学では、43種類の元素について、磁気の強さとその温度変化を調べ、それが周期律との聞に密接な関係があることを発見しました。この業績により、本多は世界から注目を集めるようになりました。
 帰国後本多は、新設されて間もない東北帝国大学理科大学(現東北大学理学部)教授に就任しました。長岡が設立に尽力したこの大学は、本多のような留学帰りの若手研究者を集め、革新的な雰囲気に満ち溢れていました。そんな環境の中て、本多はこつこつと研究を積み重ねました。
 大正3(1914)年に第1次世界大戦が勃発すると、航空機や電気計器に用いられる磁石鋼の輸入が止まりました。本多はこの危機を救うこめに磁石鋼の研究開発に乗り出そうとしましたが、文部省はこの重要な課題に対して研究費を認めませんでした。しかし、大正5年、住友財閥の住友吉左右衛門から、3年継続で毎年7千円という寄付を受けられることとなり、本多はその資金をもとに、磁石鋼の研究をすすめました。そして早くもその年の暮れ、「KS磁石鋼」を発明しました。
 KS磁石鋼は、それまでの世界最強の磁石の4倍の強さを持ち、衝撃や高温下での保磁力が強いことが特徴です。「KS」はスポンサーとなった住友のイニシャルからとりました。しかし、この発明は大戦景気に沸く国内では省みられず、特許権はアメリカの電話機会社に買い取られました。
 この成果を見た住友財閥は、新たに30万円の寄付金を申し出、それをもとに鉄鋼研究所(後の金属材料研究所)が東北帝大付属研究所としてつくられました。初代所長となった本多は昭和8(1933)年に、KS磁石鋼の4倍の強さを持つ「新KS磁石鋼」を発明しています。
 その後、本多は昭和6年から10年間、東北帝大総長を務め、戦後は79歳で東京理科大学の学長に就任するなど、教育者としても大きな足跡を残し、昭和29年、85歳の天寿をまっとうしました。

連載第125回/平成12年11月1日掲載


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?