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なにわの企業奮戦記⑨ 三洋電機株式会社

 戦前も世界でトップクラスの技術を誇っていた我が国ですが、旧ソ連ほどではないにしろ、軍需偏重で、家電製品は未発達でした。戦後の技術革新は、一歩ずつ生活様式を欧米に近づける道のりであり、家電メーカーは競って国民生活の向上に寄与してきました。戦後まもなく大阪に産声を上げた三洋電機株式会社もそのひとつでした。
 創業者・井植歳男は、明治35(1902)年、淡路島で海運業を営む裕福な家に生まれました。高等小学校1年で父を喪った歳男は、卒業と同時に乗組員となりましたが、間もなく、義兄松下幸之助が起こした新事業に参加しました。大正6(1917)年のことです。松下電器の幹部社員として、幸之助の全幅の信頼を受けた歳男は、終戦時には、系列会社数社の社長を務めていました。

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 GHQが松下家を財閥指定したので、歳男を含む幹部は全員追放を覚悟しましたが、幸いにも揃って追放指定を解除されました。しかし歳男は、軍需関連会社の責任者であった自分が身を引くことで、義兄の立場を有利に導こうと考え、昭和21(1946)年12月、自ら松下を去りました。 そして翌年正月、歳男は守口市に個人企業・三洋電機製作所を設立しました。三洋は「太平洋・大西洋・インド洋、つまり世界に売りまくろう」という歳男の意気込みがそのまま社名に採用されたものでした。大きな目標を掲げる一方で、「小さくてもよいから、本当に魂のこもった仕事をしよう」と、歳男は心に誓ったのでした。
 当時我が国はすさまじいインフレに見舞われていました。松下時代の経営手腕を見込んで銀行が貸してくれた資金が目減りする前に、歳男は進駐軍へ電気スタンドの売り込みを始めました。事務所近くに工場を確保し、スタンドと、当時多かった停電用の電灯を製造したところ、これが大ヒットとなりました。資金繰りにめどが付いた歳男は、北条工場(現兵庫県加西市)を開設し、今度は需要が高まりつつあった自転車用発電ランプの生産に着手しました。
 不良品が大量に見つかって回収、修理を余儀なくされ、その直後に守口工場が全焼するなどの困難を乗り越え、昭和24年、貿易管理が厳しい中で、三洋の発電ランプはGHQの目に留まり、ついに海外へ雄飛することになりました。
 その後、国民生活が落ち着きを取り戻すのと歩調を合わせるように、三洋は市場に家電製品を次々と送り込みました。まずは価格を抑えたプラスチックボディ採用のラジオを昭和27年3月に発売し、前年9月に始まった民間ラジオ放送の人気にもあやかって売り上げを伸ばしました。下の写真は、ラジオをかたどった宣伝カーです。

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 また昭和28年には、噴流式洗濯機を発売しました。これは従来の攪拌式の半値に近い価格で好評を博しました。評論家の大宅壮一が電化元年と呼んだこの年に、三洋が「三種の神器」のひとつを世に送り出しているという事実は、決して偶然ではありません。
 三洋の三のもうひとつの意味は、経営の三本柱である、人間、技術、サービスだと、後に歳男は語っています。「大衆に心の喜びを与える量の大きいメーカーは繁栄する」という歳男の経営理念は、競争が激しい家電業界の中で、トップメーカーを競う三洋電機を支えていたのです。

 時は流れ、平成23(2011)年、歴史ある三洋電機は、株式交換によりパナソニックの完全子会社となり、三洋のブランドは消滅していました。しかし、5年後の平成28年、インドにおけるネット通販市場で SANYO のブランドが復活しました。創業者の信念が海を越えたサバイバル劇を支えたと言えば過言でしょうか。

※写真はいずれも三洋電機株式会社提供。『大阪新聞』掲載時、旧サイトアップロード時に同社より使用許可を得ています。
第111回/平成12年7月26日掲載

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