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戦前政党政治の功罪② なぜ原敬内閣は「本格的」だったのか。

 大正初期、「桂園時代」が終わった後の、第1次山本権兵衛(海軍大将)内閣、第2次大隅重信内閣は、いずれも与党をバックに議会運営を行いましたが、首相その人は政党人ではなかったので、一般的には「政党内閣」とは呼びません。しかし、この時代には、第一党であった立憲政友会(政友会)の動静が、政治を左右する時代になっていました。政友会が与党となった山本内閣では、シーメンス事件で窮地に陥った海軍出身の山本首相を、衆議院で過半数を有していた政友会が救い、逆に大服内閣では、立憲同志会を中心とする与党連合が総選挙に大勝することで、政友会が反対していた、陸軍2個師団増設を実現しました。
 大正5(1916)年に成立した寺内正毅(陸軍大将)内閣は、藩閥政治から政党政治への橋渡しをした内閣といえるでしょう。学校教科書によれぱ、寺内内閣は「反動的」の一言で単純化されますが、寺内は議会運営では政友会の協力を取り付けていました。また第1次世界大戦中だということもあり、寺内内閣は「戦時内閣」だと見ることもできるでしょう。一般に寺内は米騒動の責任をとって辞職したことになっていますが、実際には、すでにそれ以前から体調が芳しくなく、政友会第3代総裁・原敬に禅譲する意向を漏らしていたのです。
 大正7年、5年ぶりに政党内閣が復活しました。原政友会内閣です。原は、陸相・海相・外相以外のすべての閣僚を与党・政友会から選びました。それゆえに、原内閣は初の「本格的な政党内閣」と呼ばれます。しかし、政党人はこれで満足したわけではありませんでした。たとえば、犬養毅は後に「原がやったような政党内閣は陸海相を党外から入れた政党内閣の変態だ」と、新聞のインタビューに答えています。これはためにする批判だと思いますが、原自身もそのように考えていたようです。
ワシントン会議全権代表に加藤友三郎海相が派遣されることになると、加藤と協議のうえで、自ら「海軍大臣臨時事務管理」となり、文官で初めて軍部大臣のハンコを預かりました。田中義一陸相が猛反発したことでもわかるように、これは明らかにシビリアン・コントロール、また、軍部大臣文官制への布石でした。
 原の目標も、真の意昧での「本格的な」政党内閣でした。しかし、原は拙速を避けました。国民の政治的な理解力が低い状態では、普通選挙は民主主義を歪めかねません。だから、原は選挙権よりも教育機関の拡充を優先したのです。高等教育機関だけではなく、すでに充足している小学校、師範学校以外のすべての教育機関を増設し、国民の知的レベルの底上げを図ったのです。
 議会政治とは、最終的には「数の力」で決まるものであり、解散総選挙によって絶対多数を得た政友会をバックに、原内閣はいわゆる「積極政治」を断行しました。
 ところが、多くの国民にはこれが理解できませんでした。議会において多数決で決めることが「多数派の横暴」に見えたのです。そして原敬は首相在任中に暗殺されました。確かに、少数派の意見に耳を傾けることは大切ですが、最後に最大公約数を多数決で決めるという、議会政治の大原則が、多くの国民にはまだわからなかったのです。残念ながら、今もこの常識がわからず、少数派が大声を出せば認められると勘違いしている人が多いように思われるのは、残念なことです。そういう考えの人は、原を殺した暴漢と同じレベルの理解力しかないということです。
 原は、普通選挙を認めながったという一点で教科書では批判にさらされています。しかし、帝国憲法ではあいまいだった「首相のリーダーシップ」を確立し、政党政治をさらに一歩進めた大きな功績を残していることは、素直に評価されるべきでしょう。

連載第129回/平成12年11月29日掲載

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