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明治憲法の素顔 Part 1 ①「明治憲法と内閣総理大臣」

 大日本帝国憲法(以下、「明治憲法」)が発布されたのは、明治22(1889)年2月11 日のことです。学校では明治憲法と日本国憲法を単純比較し、明治憲法は劣っていると学ばれた方が殆どでしょう。しかし、新しい方の憲法が進歩的なのは当たり前の話です。そんなわかりきった批判は無意味です。それよりも、チャンバラの時代からたった20年しか経っていないのに、立憲制度を採用した我が国の先進性にこそ目が向けられるべきではないでしょうか。
 明治憲法は、アジアで最初の近代的憲法と言っても過言ではありませんでした。1876 年12月、既にオスマン・トルコ帝国では「ミドハド憲法」が制定されていたのですが、78 年2 月には停止され、長続きしていません。日本より近代化が進んでいたとされるロシアにも、まだ憲法はありませんでした。しかし我が国は、五箇条の御誓文にあった精神を、早くもこの明治憲法に体現したのです。
 ドイツ系の、君主権が強い憲法をまねたことへの批判もあります。しかし、例えば、英国は不文憲法の国です。アメリカは君主制ではありません。フランスは国王をギロチンに架けた過去を持ちます。つまり、我が国が残りの先進国ドイツの憲法を参考にしたのは、必然的だったとも言えるのです。
 人権を充分に認めていないという批判も有効ではありません。なぜなら、江戸時代には人権などなかったからです。基本的人権に相当する「臣民の権利」には、法律の範囲内という留保がついていましたが、国家がみだりに人権を侵すことのないように、歯止めになっていたのです。
 このように、明治憲法批判は為にするものなのですが、教科書が見落としている明治憲法の欠点があります。それは、内閣、内閣総理大臣の規定がなかったいことです。
 内閣制度ができたのは、明治18 年12月のことです。つまり、憲法以前に内閣制度はできていました。ご存じのように、初代内閣総理大臣は伊藤博文です。明治憲法下での首相の権限は内閣官制に規定されていましたが、憲法には裏付けられていませんでした。それではこれを当時の憲法学者たちはどのように考えていたのでしょうか。
 「天皇機関説」で有名な美濃部達吉は『憲法提要』の中で、「内閣の中で最も重要な地位にあるのが内閣総理大臣で、国務大臣の首班として内閣の統一を保持し、行政各部の監督責任を持つ」としています。
 しかしながら明治憲法では、首相の提出した閣僚名簿をそのまま認めるとはいえ、国務大臣の任免は天皇の権限でした。だから閣僚が内閣の和を乱すことがあっても、首相は罷免させることもできないのです。
 昭和16(1941)年、第2次近衛文麿内閣の時のことです。松岡洋右外相が、日米交渉を巡って、近衛たちの方針を無視したのですが、松岡が個人的に辞表を出さない限り、彼を閣外に出すことはできません。だから近衛は、一旦総辞職して、松岡を外して改めて組閣するという手間をかけたのです。
 明治憲法下の首相は、国務大臣と同列であり、強烈なリーダーシップを発揮することは難しかったのです。帝国憲法のシステムそのものは、民主的な政治体制に移行できる可能性を秘めていましたが、補弼責任者である内閣総理大臣の権能が曖昧であったことが、民主化への道を閉ざしたとも言えるでしょう。

連載第11 回/平成10 年6月27 日掲載

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