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なにわの近現代史PartⅡ⑤ 道頓堀にあった「雷の本家」~電気ことはじめ

 昔は、電化製品には周波数の切り替えスイッチがついていました。例えば、引っ越しをして東京で使っていたものを大阪で使うとき、そのスイッチが必要でした。その理由は、関西では電気の周波数が60ヘルツであるのに対して、関東では50ヘルツだからです。これは電気事業の黎明期に、大阪と東京の会社が、異なった技術を採用するという、電気をめぐっての東西対立が発端なのです。
 明治20(1887)年11月29日、東京電燈会社が発明王・エジソンの技術を採用し、直流電気の送電を開始しました。その翌日、大阪電燈会社が設立の申請を行っています。東京に対抗して大阪は、エジソンのライバル会社と契約し、交流125ヘルツを採用しました。そして2年後の5月20日、まずはミナミに送電を開始しました。「カミナリの本家」と呼ばれた発電所は、何と道頓堀にありました。
 開業当時の電気料金は、日没から午前0時まで、10 燭光(約10 カンデラ)の送電で1ヶ月1円でした。ランプの石油代ならば60銭ほどで済んだので、電気を引くのはとても贅沢なことに思えました。商家の旦那衆には「電気なんぞ引いたら、ソロバンにあわんわ」とそっぽを向かれる始末です。
 停電や故障もたびたびありました。電燈会社の修理係は引っ張りだこで、人力車であちこちを駆け回りました。利用者の中には、電気の知識を持つ人はいません。切れた電球を取り替えただけで、再び光がよみがえった…… それが庶民にはとても高度な技術に見えました。そして魔法のような作業を終えた電燈会社の社員には、酒食の接待が待ち受けていたといいます。
 さて、会社が期待したようには電燈の利用者数は伸びませんでした。また、大阪ではサービス開始直後に変圧器の故障による感電死事故があり、東京でも、明治24年に漏電が原因で国会議事堂が全焼するなど、我が国の電気事業は散々な幕開けとなりました。その直後、東京は直流をやめて交流50ヘルツに鞍替えし、それに対抗するように大阪も60ヘルツに切り替えたのです。
 このように、 最初は「危険で不便」と不人気だった電燈ですが、利用者増のきっかけとなったのは、「石油ランプよりも安全」ということが認知され始めてからでした。
 明治23年9月、ランプの不始末が原因で西区新町一帯で大火となりました。それを契機に、一般家庭でも電気を引くところが徐々に増えました。開業時、たった150灯だった契約数は、翌年末には6,300灯になりました。明治42年のキタの大火、45年のミナミの大火と、大阪では大火事のたびに契約数は鰻登りとなり、明治末には50万灯を突破しました。
 火事ばかりではなく、明治36年に天王寺などで開催された第5回内国勧業博覧会でのにぎやかな電飾も電気事業の宣伝となりました。昨今のLEDイルミネーションのように当時の人は思ったことでしょう。
 デモンストレーションで、金魚鉢に電球を入れて電気をつけ、「ほら、消えません。もっと電気のご利用を」と契約者を増やすためのPRに走り回った大阪電燈会社。その流れを汲む関西電力は、今日利用者に節電を呼びかけています。

連載第57回/平成11年5月26日掲載

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