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鉄道の歴史Ⅱ(戦後編)⑦ 孤軍奮闘の石田総裁

 昭和38(1963)年5月、初めて財界出身の国鉄総裁が誕生しました。石田禮助第5代総裁は就任時77歳。明治40(1907)年に東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業後、三井物産に入社し、海外勤務などを経て、昭和11年に常務となりました。大東亜戦争が始まった昭和16年に退社し、交易営団総裁を勤めたことで、戦後、公職追放となっていました。追放解除の後、国鉄監査委員長に就任し、新幹線建設に邁進する十河信二第4代総裁を蔭から支えました。
 石田が総裁に就任して半年後の11月9 日、東海道線で、脱線した貨物列車に電車がつっこみ、反対側から来た電車にも衝突するという鶴見事故が起きました。161名の犠牲者を出したこの事故の後、石田は、所定の3分の1しか受け取っていなかった給料を全額返上してしまいました。石田が返上した国鉄からの給料は、監査委員長時代からの総額で7,500 万円にものぼりました。
 「サービス第一」を旗印にした石田は、職員の服務の問題にも神経をとがらせました。労使関係が円滑でないことは石田の悩みのひとつでした。「組合員は総評の組合として働き、国鉄職員としての自覚がない。利用客の犠牲で自分たちの目的を達成しようとしている」と労組を厳しく批判していました。しかしその一方で、昭和39年の春闘では、「電電公社(現NTT 各社)、専売公社(現JT)と同じ公社でも、国鉄マンは人命を預かり、昼夜の区別なく働いているのに、給料が同じなのはおかしい」と発言し、給与アップを応援してもいたのです。
 その昭和39年、東海道新幹線が開通しました。石田総裁による華やかなテープカットのセレモニーとは裏腹に、この年、国鉄は単年度で赤字を出します。昭和 41 年度には運賃値上げを断行しましたが、収入は思うように伸びず、この年から過去の繰越利益も消えてしまい、完全な赤字に陥ってしまいました。
 一方、大都市通勤圏と幹線の輸送力増強は不可欠で、膨らむ赤字との間で石田は板挟みとなりました。赤字対策として石田が打ち出したのは、積極
的な収益改善策でした。旅行商品の販売や、プレゼントの企画などです。昭和43年10月には特急、急行の大増発とスピードアップ、東北本線の複線電化完成などを柱にした、史上空前のダイヤ大改正を行いました。これは、「ヨン・サン・トオ」の名で鉄道史に刻まれています。
 2 期目の任期半ばの昭和44 年5 月、高齢を理由に石田は辞表を提出し、磯崎叡副総裁にバトンタッチしました。難問は山積みでしたが、初めて無傷で退任する国鉄総裁を、職員は拍手の嵐で送り出したのでした。

連載第144回/平成13年4月4日掲載

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