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スポーツ日本史⑩ メジャー・リーグと日本のプロ野球~フレズノの夢は今

 世界初のプロ野球チームであるシンシナティ・レッドストッキングスの誕生が1868年、メジャー・リーグ機構の前身にあたる組織が発足したのが1871年のことです。ちなみに、現在のナショナルリーグは1876年、アメリカンリーグは1901年の誕生です。
 わが国の本格的なプロ野球チームはアメリカから40年遅れて産声を上げました。草創期から現在まで、日本のプロ野球人の目標は、この40年の遅れを取り戻し、メジャーと互角の勝負をすることにある、といっても過言ではないでしょう。
 昭和6(1931)年、日本最初のプロ球団であった日本運動協会(芝浦協会)設立時のメンバーで、当時、読売新聞運動部長だった市岡忠男は、メジャー・リーグ選抜チームを招き、東京6大学の選手と対戦させました。また、昭和9年には、大日本東京野球俱楽部(のちの東京巨人軍)の母体となる全日本軍が結成され、ベーブ・ルースやルー・ゲーリッグ(いずれもニューヨーク・ヤンキース)らの強打者を擁するメジャー選抜に挑戦しました。11月20日に静岡・草薙球場で行われた試合では、巨人の第1期黄金時代のエースとして君臨する沢村栄治(京都商)が「懸河のドロップ」(大きく盾に曲がり落ちるカーブ)でルースから三振を奪い、6回を完封するという快投を演じています。
 日本人とメジャー・リーガーの対戦といえば、日系人の中にこんな人物もいます。昭和2年、カリフォルニア州フレズノで行われた地元のノンプロ「トワイライトリーグ」のエキジビジョン・グームでのこと。ゲストとして参加したルースやゲーリッグとともにプレーし、果敢な走塁でルースを翻弄した銭村健一郎という伝説の野球人がいます。地元日系人は銭村のメジャー入りを期待していましたが、その夢がかなうことはありませんでした。実は戦後、草創期の広島カープに入団して活躍した銭村健三、銭村健四の兄弟は、この健一郎の息子なのです。
 さて、昭和24年のシーズン後に、3A級パシフィックコースト・リーグのサンフランシスコ・シールズ(戦前、ジョー・ディマジオが在籍していたことがあります)が来日し、15年ぶりに日米のプロチームが対戦することになりました。しかし、この3Aチームに、川上哲治、別所毅彦、藤村冨美男ら当時のスター選手をそろえた日本チームはまったく歯が立たず、改めて日米の力の差を見せつけられました。
 その屈辱の時から再び15年の歳月が流れた昭和39年9月1日、場所はニューヨークのシェイ・スタジアム。ニューヨーク・メッツ対サンフランシスコ・ジャイアンツの試合は、8回裏まで進んでメッツのリードは4点となりました。その時、ジャイアンツのアルビン・ダーク監督が審判に投手交代を告げました。
 「ジャイアンツのピッチャー、マサノリ・ムラカミ!」。
 アナウンスに場内はどよめきました。マウンドに向かうのは弱冠20歳の村上雅則。ここに、日本人初のメジャー・リーガーが誕生したのです。
 村上は、昭和37年に法政二高から南海ホークス(現福岡ソフトバンク・ホークス)に入団した左腕投手。この年の開幕直前に、サンフランシスコ・ジャイアンツ傘下の1A「フレズノ・ジャイアンツ」に野球留学していました。あの、銭村が活躍したフレズノというのも何か因縁を感じます。村上は、この日の試合開始直前に突然大リーグに昇格し、いきなりマウンドに立ったのです。村上が最初の打者を三振にしとめると、場内のボルテージは最高潮に。残念ながら、南海との契約問題もあり、マッシー(村上の愛称)の活躍は2年間で終わりました。
 その後、パイオニアと呼ばれる野茂英雄に続き、新庄剛志、松井秀喜、松坂大輔、イチロー、そして今日では大谷翔平はじめ複数の日本人選手が活躍中です。まだまだ互角の戦いとは言えませんが、日本人選手が世界最高峰のリーグで活躍する時代になったことを、一野球ファンとして喜ばしく思います。

連載第82回/平成11 年12 月15日掲載

【追記】
 この記事を最初に書いた数年後、筆者はカリフォルニア州で一時教職を離れ、食品商社の営業マンをしていました。テリトリーはあのフレズノ地区。2週間に1回、2泊3日の泊まり込みで50件のクライアントを訪ねていました。月曜の早朝に出発、2時間以上バンを運転し、最初に訪ねるアカウントが「ZENIYA」というレストランでした。店を切り盛りするRoseという年配の女性オーナーから、いつも直接注文を受けていたのですが、彼女は銭村健四選手の未亡人でした。たまたま立ち話で彼女の広島時代の話を聞いていた時に、健四と同時入団した光吉勉選手に遭遇したこともあります。今を思えば、仕事の合間にもっと取材をしておけばよかったと後悔しています。

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