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日本人の大発見⑦ ビタミンを最初に発見した農学者・鈴木梅太郎

 脚気はかつて、原因不明の恐ろしい病気でした。全身が衰弱して運動障害に陥り、麻庫が広がって、ついには心臓が冒され、死に至ることもあります。その原因がピタミンB1の不足であることをつきとめ、世界に先駆けてビタミン学の基礎を築いたのが、鈴木梅太郎です。
 鈴木は明治7(1874)年に現在の静岡県相良町に生まれました。明治22年に東京農林学校(現東京大学農学部)予科に入学し、専門課程では農芸化学を専攻しました。
 明治34年、母校で教鞭をとっていた鈴木は、文部省留学生として欧米に渡り、ベルリン大学でエミール・フィッシャーの下、タンパク質の研究を行いました。「欧米人に比べ、日本人は体格が悪く体力にも劣る。それは食物の違いだ」と考えた鈴木は、「東洋における特殊の問題を見つけよ」とフィッシャーから示唆されたこともあり、帰国後は主食である米の栄養についての研究に没頭しました。
 鈴木は実験動物の鳩を、肉を与えるものと、白米を与えるものとに分け、たん白質による個体の体格差を見ようとしましたが、うまくいきませんでした。ところが意外な事実が判明しました。白米を食へた鳩が、運動障害に陥って死んでしまいました。その鳩は脚気になっていたのです。
 実は、すでに1896年にクリスティアーン・エイクマン(蘭)がニワトリの脚気治療に米ぬかが有効であることを発見していました。鈴木が脚気の鳩に米ぬかを与えたところ、あっという間に回復しました。ネズミで確認しても同じ結果を得ました。鈴木は、脚気の特効薬を得るために、米ぬかの有効成分抽出に着手しました。
 ところで、当時海軍では長期航海中に脚気が流行することが多くありました。衛生面には問題はなく、伝染病とは思えません。原因は栄養不足に違いないと判断した海軍軍医総監高木兼寛は、明治17年に食事を洋風に改めました。脚気伝染病説が主流であった医学界はこの措置を冷笑しましたが、その直後に、海軍における脚気はなくなりました。
 頑なに白米食を続けていた陸軍では、日露戦争の戦病死者の半数が脚気だったといわれています。ちなみに、白米食に拘ったのは、後に陸軍軍医総監となる森林太郎(森鴎外)でした。文豪は名医ではなかったようです。
 さて、研究を積み重ねた結果、明治43年、鈴木は米ぬかから有効成分を取り出すことに成功し、アベリ酸と命名しました。後に酸でないことがわかると、イネの学名(oryza sativa)にちなんで「オリザニン」と名づけました。
 しかし医学界では、畑違いの農学者が脚気を治せるはずがないと、製法特許を得て三共株式会社で試作した製品を提供しても、ほとんど相手にされませんでした。
 鈴木に遅れること1年、カジミール・フンク(ポーランド)が同じように米ぬかから脚気に有効な成分を取り出し、これをビタミンと名づけたことで、その研究は加速度的に進みました。1929年に、エイクマンらがノーベル賞を受賞するに及んで、にわかに鈴木の研究が注目されました。
 大正3(1914)年に第一次大戦が勃発すると、交戦国となったドイツからの医薬品、化学薬品の輸入が途絶えましたが、鈴木はそれらの国産化に尽力しました。理化学研究所の創設にも参画して、酒の風味を左右するコハク酸を合成し、合成清酒の製造に成功しています。
 その後も昭和18(1943)年に69歳でこの世を去るまで、鈴木は、日本の化学の発展に尽くしました。その功績を伝える静岡県の鈴木梅太郎博士顕彰会は、理科研究で優秀な成績を収めた中学生、高校生と、理科教育に功労のあった教員に鈴木の名を冠した「鈴木賞」を贈り、その功績を今に伝えています。

連載第124回/平成12年10月25日掲載

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