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戦前政党政治の功罪⑦ 統帥権干犯を政争に利用した犬養毅と鳩山一郎

 昭和5(1930)年、わが国が金本位割に復帰して10日目の1月21日、ロンドンで海軍の軍縮を話し合う国際会議が聞かれました。金本位制復帰も軍縮協議への参加も、政府の国際協調政策を意味していました。
 このロンドン海軍軍縮会議は、大正10(1911)年のワシントン海軍軍縮条約では対象となっていなかった、補助艦や潜水艦の制限を定めようという目的で行われました。潜水艦の保有制限は、わが国の防衛戦略に大きな影響を与えます。なぜなら、海軍が仮想敵国としていたアメリカと開戦した場合、潜水艦による作戦が重視されていたからです。当然、海軍はこの会議の成り行きに大きな関心を持っていました。
 立憲民政党(民政党)の浜口雄幸内閣は、全権代表として、若槻礼次郎元首相らを派遣し、最終的に、補助艦の比率は海軍の要求した対米7割に近い6割9分7厘5毛、潜水艦は日米対等、大型巡洋艦は対米6割で調印し、軍縮条約は成立しました。
 海軍の強硬派(いわゆる艦隊派)は「この条約では国防は不十分」という認識を示しました。これを奇貨とした野党・立憲政友会(政友会)は、犬養毅総裁、戦後首相になる鳩山一郎代議士(鳩山由紀夫元首相の祖父)らが中心となって、「これは国防上の欠陥であり、さらに政府が軍縮条約を勝手に結んだのは、天皇陛下の統帥大権を干犯している」と、民政党政府の「失政」を激しく攻撃しました。いわゆる「統帥権干犯問題」です。
 実は、ワシントン軍縮条約締結の際にも、そのような議論が一部で起こりましたが、識者からは一笑に付されていました。なぜなら、軍備をどうするかということは、予算措置を伴うものだからです。予算に閲しては、内閣(政府)が責任を持っています。だから、天皇が信任している政府が軍縮条約を結んでも、統帥権を干犯しているとはいえません。
 しかし政友会は、海軍の一部が不満に思っていることを盾に、政府を攻撃しました、これは政党政治家にとって、禁断の武器でした。政友会は政党政治を無力化することを自ら助けていたことになります。政友会の主張通りなら、国防予算の要求を政府が抑える術はありません。政友会は海軍に頼まれたわけではなく、政府を攻撃できることならば何でも利用する、そんな浅はかな考えだったのでしょう。憲政の神様・犬養や、戦後首相になる鳩山のような政治家ですらこの低レベルです。他の政党政治家の憲政擁護の意識など、推して知るべしです。
 一方民政党政府の対応にも、拙いものがありました。浜口首相がテロリストに撃たれて入院した後、幣原審重郎外相が首相臨時代理になりました。「この条約では国防が危うい」という政友会の攻撃に対して、「陛下がご批准になっているになっているので大丈夫だ」と答弁してしまいます。政治的責任を天皇に負わせない(君主無答責)、というのが、今も昔も憲法上の決まりであったにもかかわらず、幣原は野党の攻撃をかわすために、「天皇の批准」という、言わずもがなの事実を言い訳に使ったのです。
 この失言で、議会は大混乱に陥りました。浜口は病床から引きずり出されて答弁し、事態を収拾させた後、桂冠を辞しました。
 政友会が「統帥権」というパンドラの箱を開けてしまったこともさることながら、民政党が天皇を楯に使おうとしたことも、議会政治の運営という点では、あまりにも無責任な態度でした。
 当時の政党政治家は、目先のことしか見えていなかったとしか思えません。これでは国民が、政党政治、すなわち憲政を見放したとしても、しかたがなかったでしょう。
 果たして今日、政党政治はこのレベルから少しは成長しているでしょうか。

連載第134回/平成13年1月10日掲載

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