鉄道の歴史Ⅱ(戦後編)② 国鉄誕生直後の怪事件
日本国憲法の誕生に伴って、昭和23(1948)年7月に国家行政組織法が制定されました。政府はこの法律に基づいて、各省の設置法を制定することになりました。国有鉄道を所轄する運輸省(現国土交通省)も再編されましたが、国有鉄道の組織をめぐっては、行政組織の民主化という観点から、様々な論議がありました。占領軍は「公共企業体」というありかたを日本政府に示しました。それは、公共性を保ちながら企業性を求め、独立採算性を維持するというものでした。日本政府は監督権限が薄れるこの案に難色を示しましたが、マッカーサー司令官の意向により、運輸相の監督下に、国有鉄道の経営のみを担当する特殊法人を置くというスタイルで、最終的に占領軍の了承を得ることができました。
この時、占領軍と折衝した中心人物が、運輸次官・下山定則でした。労使関係に関しては、団体交渉権は認めるが、争議権は認めない。その代わりに、労使間の紛争を調停・仲裁する機関を設け、労使双方を拘束する、という取り決めが行われました。
こうして生まれた新しい組織は、日本国有鉄道(略称国鉄)と名付けられ、昭和24年5月の運輸省設置法の公布に伴い、6月1日に発足しました。吉田茂首相は初代国鉄総裁に外部から大物を招聘する考えでした。関西の鉄道王・小林一三の名も取りざたされましたが、総裁に就任したのは、次官に就任する前に、旧鉄道省名古屋鉄道局長、東京鉄道局長を歴任した下山でした。
さて、当時第3次吉田内閣は、官庁職員の人員整理に取り組んでいる最中でした。国鉄が誕生する前日、行政機関職員定員法が成立し、国鉄も60万人以上いた職員から、10 月1日までに9万5千人をリストラするという方針が立てられていました。これに反発した国鉄労働組合は、人員整理反対闘争に突入し、対立は次第に激化していきました。
新組織国鉄は、違法ストやそれに対する処分などで揺れ、騒然とした幕開けとなりました。7月1日に下山総裁は組合側と会見し、定員法に基づく人員整理の基準を通告し、4日には3万人余に対する第1次整理を発表しました。
その翌朝のことです。
東京都大田区の自宅から国鉄本庁へ向かった下山は、途中で立ち寄った三越日本橋店で忽然と姿を消しました。午前中にGHQ(連合国軍総司令官総司令部)に行く予定だった下山が登庁しないことを心配した国鉄は、午後3時に捜査願を出しましたが、その足取りはわかりませんでした。
足立区の常磐線の線路上で、下山の轢死体が発見されたのは、翌6日午前0時25分のことでした。マスコミには自殺説、他殺説が乱れ飛びましたが、真相は未だに闇の中です。
下山の後を受けて、副総裁・加賀山之雄が総裁代行(後に第2代総裁)に就任しました。国鉄が6万3千人に第2次人員整理を通告した2日後の7月15日には東京の三鷹で無人電車が暴走し、6人が死亡した三鷹事件が、8月16日には東北本線金谷川-松川駅間で旅客列車が断線転覆し、機関士ら3人が死亡した松川事件が起こりました。
この3つの怪事件は、反対闘争を激化させていた組合や暴力革命を目指して活動していた日本共産党に嫌疑がかかりましたが、結局首謀者も、目的もわからないままです。
新たな希望に向かって走り出すはずの国鉄は、いきなり暗いトンネルに入ってしまったようでした。
連載第139 回/平成13 年2月21 日掲載
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