見出し画像

「アメリカのお寒い日本語教育事情」の巻

 国防総省語学学校(DLIまたはDLIFLC=Defense Language Institute Foreign Language Center)は、Presidio of Monterey(モントレー陸軍基地)内にある。小高い丘の上にあるキャンパスから、美しいモントレー湾を眺めつつ、ある意味のんびりと仕事をしていたことを思い出す。 
 出勤は少し早くて7時45分。昼休みは1時間15分あるのに、退勤時間はぴったり9時間後の16時45分。基本的に残業はない。バスに乗って6時までには帰宅できる。授業はきつかった。1週間に20時間以上教えていた。尤も、学生はみんな軍人なので、タスクをさせてもちゃんと指示に従ってくれるので、その点は楽だった。生活指導も勿論ない。ただ、教官は学習カウンセリングをしなければならず、英語が拙い筆者は1か月に1回あるその時間が苦痛だった。
 給料は、高い、というほどではなかったが、まぁ、不安だという訳でもなかった。DLIFLCはカリフォルニア州認可の高等教育機関(College)ではあるが、個人研究費は出ない。年俸制のサラリーだけだ。しかし支給回数はありがたい。2週間おきに給料日がある。民間企業でも月2回というところも多いが、ここではきっちり2週間おきに給料日が来る。例えばそのお陰で、2010年12月は給料日が3回あり、月給ベースで考えると、急に給料が上がったかのような錯覚に陥るのだ。勿論、年俸を給料日の日数で割っているだけなので、得をしている訳ではないのだが。
 さて、外国語としての日本語を教える立場になって、今もまだ強く感じていることは、既成の日本語教材に、国語として日本語を学んだ者として違和感を覚える内容が多い、ということだ。これは、DLIFLCで使用している教材が、ということではなく、一般に流通している日本語教材全般に対して言えることである。
 例えば、日本語教育では、動詞の活用を教える際に、必ず「てform」という言葉が出てくる。動詞の連用形に助詞の「て」をくっつけて覚えさせるというコンセプトだ。例を挙げると、「行く」―「行って」、「書く」―「書いて」。ということだ。音便の説明が難しいということもあり、多用されている。「てform」は、大学や語学学校の日本語を教える教室で普通に使用されているものなのだが、何故このような用語を、あえて日本語教育のために作ってしまったのか理解に苦しむ。学生は「て」を含めて動詞の活用形だと思い込むから、その後、動詞の複雑な活用の説明をするときに、混乱をきたす。というよりも、理解できなくなる。この他にも、教科書によって違うのだが、「るverb」「うverb」「いadjective」「なadjective」など、耳を疑うような用語が、日本語教科書にはたくさん出てくるのだ。
 私はたまたま、サラリーマン時代の同僚の日系人から、初めてこの奇妙な用語を聞いたとき、全く意味が分からなかった。日本語学習者に対して、一般の日本人が聞いて理解できないような特殊な用語を使用することは、日本語教育にとって決して良いことではない。一般人に日本語のことを尋ねたくても、この異形の文法用語が、コミュニケーションを妨げるからだ。
 ある日本語教科書では、動詞の活用形を三種類にしか分類しない。五段活用を「タイプ1」、上一段活用と下一段活用を「タイプ2」、そしてサ行変格活用、カ行変格活用を「タイプ3」に分けている。コンセプトは分からないでもないが、わざわざ無理やりに3つの枠に押し込む必要はなく、素直に口語文法で教えるとおりに5種類で教える方が、理解しやすいのではなかろうか。
 口語文法が確立されているのに、屋上屋を架す必要はないはずだ。
 他にも日本語教材がおかしなところはたくさんある。「実用的な口語」という観点からかもしれないが、「~しちゃう」「~しちゃって」というような東京方言が、「カジュアルな言い方」として堂々と教科書に載っている。「たり」を1回しか使用しない不完全な文、不要な二重敬語なども日本語教科書には散見される。酷いものになると、動詞「くれる」を、話者を介さない例文(たとえば、「○○先生が××君に本をくれた」)で紹介するような、明らかな誤りさえも見受けられるのだ。日本語教科書には文部科学省による検定がないので、誤りを訂正する機会が少ない。しかも日本語教科書や教育内容の改善は、現場任せでは不可能だ。なぜなら日本語教師の多くは、筆者と同じく、必ずしも国語の専門家ではないからだ。
 平成21年12月30日付『産経新聞』は米国内では日本語教育の熱が冷めていることを報じている。「昨年9月のリーマン・ショック以後の景気悪化にともなう財政難によるもので、首都ワシントン近郊で20年の歴史を持つ公立小学校の日本語特別訓練プログラムも廃止の危機にある」。「日本政府の消極姿勢が、海外での日本語教育の衰退をもたらすという懸念も浮上している」という。日本語講座が閉鎖される一方で、中国や韓国は、自国文化を広げるために、莫大な資金を投じて、漢語や韓国語の講座を増やしているらしい。前出の記事にも、「一方で、中国語学習は、中国政府の積極的な支援もあって増加傾向にある。中西部の公立校では、日本語講座の閉鎖で捻出した予算を使い、中国語を開講する例もあるという。『アジア系言語はひとつでよい』との行政側の認識があるためで、日系企業幹部は『かつて日本がした支援を中国や韓国が行っている』と日本の危機感の薄さを挙げ」ているという。
 国語教育者も研究者も、そして文科省も、もっと海外での日本語教育に関心をたなければ、日本の影響力はさらに低下する一方だ。日本語教科書の改善もそうだが、日本をもっとアピールし、興味のある人が正しい日本語を学べるようにするのは、政府の役割ではないか。

『歴史と教育』2010年9月号掲載の「シビリアン・アンダー・コントロール~モントレーの砦から」に加筆修正した。

【カバー写真】
 学生が書いた「書き初め」行事の作品。思い思いの言葉が躍る。(撮影:筆者)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?