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【イベント】「多摩美術大学ゲームアート研究室 第一回」

6月22日に多摩美術大学 八王子キャンパスで行われた「多摩美術大学ゲームアート研究室 第一回」に参加した。

上:主催であるmgr allergen0024(meguru)氏によるXのポスト

イベントは参加費無料・外部からの参加も可能となっている。

13時から17時ごろまでの約4時間、途中休憩を挟みつつ複数の登壇者によるミニレクチャーと作家によるゲームプレイが行われ、17時からは参加者・登壇者を交えた懇親会も設けられた。

さて、このnote記事はイベントレポートではなく、私の感想を書く。なのでこの催しで個別具体的になにが行われたかといった情報はない。もしそうした情報を知りたければ登壇者の方々がSNSで投稿しているものを確認されたほうがいいだろう。なお、主催者のmgr allergen0024(meguru)氏による記事が後ほどあがるそうだ。

私自身はゲームライターとして文章を書いているほか、所属している集団「ゲッコーパレード」において演劇分野の芸術に関わることもある。
一方で私は個人的に「美術」「アート」といったものに対して距離を感じながら(作りながら)接してきた。なぜかというと美術というものがよくわからないし、ふだんの生活に無縁であると感じることがあるからだ。そこにはまた、自身に学がないというコンプレックスや遠慮も幾分かあるだろう。

だから「多摩美術大学」という名前を聞いても、場所にしろ分野にしろ携わる人々にしろ、本当に遠い惑星のことのように思える。それが視覚的であれ概念的であれ、美しさや良さをジャッジできる感性が乏しいのだ。とはいえ、美術的なものが要らないというほどに極端な発想には至らない。曖昧だ。それはやっぱりわからないからなのだろう。

ここ数年はわからないなりに個人的に学習したり、他人に教えを請うたりして、型を見つけだそうと試みてきた。まずはじめに実感・得心・確信が自分のなかに発生しない以上、そうするほかはない。芸術はもとより、ゲームにも美学があるらしいのだから、それに関わることは得心いかなくとも知識だけはつけたかった。

そんなところで今回の催しを知った。当日の朝だった。以前からXでフォローしていた方々も登壇する。たまたま仕事も休みだったし、なにより無料で参加ができるハードルの低さに惹かれた。それに、こういうことでもなければ大学に侵入する機会もないだろう。

ふだん乗らない路線の電車に揺られるうち、本当に自分が行ってもいいのだろうか?という気になってきた。途中、ドーナツ屋さんが構内にある駅が2つもあって、そのおかげで気も紛れた。

バスに乗って大学に到着する。いわゆる「美大」にはまったく来たことがなかったが、学内の備品をちょっと見ただけでも自分のイメージそのまま、独特の様相が見て取れた。会場は情報デザイン棟 205号室(当初206号室だったが変更)。チラシから察せられるかもしれないが、どことなくゆるいというかおおらかな場づくりがなされている。入り口にはお菓子や飲み物のほか、ステッカーを配布していた。

登壇者の講義は「ミニレクチャー」という通り、10分~30分でスライドを駆使し、短くまとめられている。もちろんこの短時間で触れられるのはごく一部だということは想像に難くない。それでも要所となるワード(用語・人物・文書)が押さえられており、ひとまず覚えておけば後々自分で気になったところを調べればいいようなレクチャーが多く、とても助かった。私個人としては以前にゲーム研究の書籍を読んでいたことでより理解ができやすかったのかもしれない。

まずはじめに「ゲームアート」と「アートゲーム」が完全に線引きできないながらも枠組みがあることがわかった。字を見ればそれはそうだろうとなりそうだが、非常に大雑把にいえばゲーム寄りの美術・芸術「ゲームアート」と美術・芸術寄りのゲーム「アートゲーム」という解説だったと思う。

最初に登壇したmgr allergen0024氏のレクチャーではアートゲームの「ゲーム」としての評価のされ方(いわゆるゲーム性についての批判)を取り上げつつ、そのスライドの最後は「表現したいことを自由にやろう。それがアートゲームでもエンタメゲームでも。」というもので締め括られていた。

催しは「ゲームアート研究室」と題されてはいるし、学問だ。そしてゲームは人を楽しませる遊びだ。しかし表現としてのゲームアートそのものは窮屈でなく、もっと表現選択の幅を広げていいと学生や聴講者たちを後押しするものだったように思えた。こういった文言は私の発想の埒外にあるもので新鮮だったし、最初から頭でっかちにならず、外部から参加できるこのイベントの風通しのよさも感じられるものだった。

先ほど「実感・得心・確信」が自分のなかにはないという話をしたが、この催しではそうした感覚を得られることが多かった。単純に非常に分かりやすく解説してもらったというのもあるが、谷口暁彦氏の「In-game photography の要点」で言われていたゲーム内に実装されたフォトモードの異常さ(決定的瞬間ではなく時間を止めて空間のパラメータを弄っている…等々)については日頃ゲームをしながら感じていることだったので何度も頷いたし、現代のスマートフォンに搭載されたカメラの話(カメラが現実の景対象や景色をバーチャル化し調整している)は、最近カメラ趣味を持つ身内から近いことを聞いていたこともあって興味深かった。また、プロのゲーム内写真家といった存在、その活動内容は初めて知るものだった。

作家によるゲームプレイ解説では、小光氏が「90年代CD-ROM」(PCやCD-iなどでみられたインタラクティブな絵本的コンテンツ)についての概要を話し、そうしたものが背景・動機としてあったうえで自身の作品(「here AND there」,「Five Years Old Memories」)をプレイ、解説するという形をとっていた。こうした90年代のマルチメディア、エデュテイメント系ソフトは個人的に見過ごしがちだったので大変興味深かったし、3DO、プレイディア、さらにキッズコンピューター・PICOといったコンシューマーゲーム機の側へも光を当てられそうな展望が見えた。

アートを型で捉えようとしてきた自分にとって、宇佐美奈緒氏の「I stitch my skin to the ground」(本作は「Ambiguous Lucy」(2021)と「Replay over and over」(2023)という2作のゲーム作品によって構成される。制作時期にタイムラグが存在し、後者が前者の前日譚にあたる)は、最初から直に身体に感じられるものが大きい、本当に稀な作品だった。触る、触られる身体の気持ち悪さとなまめかしさが3DCGで徹底して表現されている。性暴力を受けたことで肉体の感覚が変質してしまう人間のことを描いているが、見ている側としては体そのものの持つ実感や力強さが伝わってくる鏡像のような作品で、3DCGの人物が自分のことのように思えてしまう。それと同時に、被害と加害といった関係や構造のみを容易に看取することがないように注意深く作られているように思われた。

この作品は被害によって物体にさせられた人間を、プレイヤーが動かせるゲームプレイ部分→動かせないデモシーン部分へと変わるという手法で表現している。そのため、私の感じた肉体の実感・力強さは作家の意図とはズレがあるのかもしれない。私はプレイ映像を見ていただけだが、自由に動かせない人間が3人称視点で写っているアニメーションは、自分の体に接触される気持ち悪さをありありと再生させるものだった。

レクチャーやゲームプレイを通して、すべてを理解したとも思わないし、書き切らないが、私にとってはとても意義深い催しだった。こんなイベントに外部から参加できて、正直ありがたかった。

今回私はゲームという自分にとって近づきやすい分野につなげることで美術を考えよう・捉えようと思ってこの催しに向かったわけではない。むしろそのふたつが結びつくことで、余計にわからなくなるのではないかという懸念すらあった。わかっていると思っていたものすらわからなくなるかもしれないからだ。実際に参加してみると、ゲームのプレイを通して物事をみるといったこと以上に、美術・アートというものが人間になにを投げかけるのかを体感できた気がする。もちろんその状態を発生させたのは他でもないゲームという媒体なのだが、それはこれまでに私が得たゲーム体験とは異なる質感だった。

本来はまず何らかの感動があって、そこから理論を学んだり打ち立てていくのだろうが、私はその逆をとってきた。そして自分自身の判断が曖昧であり続けるがゆえに、ゲームとアートを分けるラインをどこかで設けねばならないのではないか、という考えも頭の片隅にあった。実際の自分は分けるべきだとは思っていなかったのに。この催しに参加してみて、別段ゲームとアートが融合する必要はないにせよ、そうしたもの––ゲームアート、アートゲーム、ゲームのようなアートのような何か––があったとしてもやはりそれはそれとしてまったく悪くないということが、想像や言葉ではなく実感として得られた。

間違ってるかもしれないし合ってるかもしれないし、これは結論ではないので、私はもう少しその曖昧さを考えてみたい。

2024/6/24 執筆・投稿
2024/6/24-25 テキスト修正・画像追加のうえ再投稿

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