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『なつもん!』と世界の終わりと諸行無常

『なつもん!』を遊んでいる。

『なつもん!20世紀の夏休み』はスパイク・チュンソフトからリリースされているNintendo Switch用のビデオゲームだ。

本作を遊んでいるとき、「あの世」を連想させられる景色に私は出会った。
あの世には行ったことがないが、ただ漠然とあの世というものがあるとしたら、きっとこうなのだろうというイメージを画面越しに感じた。そのことをひとに伝えたとき、「世界の終わり」という言葉を受け取った。なるほどたしかにその感覚はあったと思う。これは『SEASON: A letter to the future』(邦題『シーズン~未来への手紙~』)という、終わりを迎えつつある世界を題材としたゲームを思い起こさせる感覚を『なつもん!』に感じていたからだ。世紀末という時代設定に加え、明確に終わりがある夏休みが舞台となっていることも、無関係ではないだろう。そう感じていたことを認めつつ、私はそこに「諸行無常」という言葉を付け足した。

だが、考えてみれば諸行無常とは現世を言い表した言葉である。あの世らしい風景に対して使うのはよくよく思うとそぐわない。私は自身でもその言葉を選択したことに疑問を抱いた。なぜ諸行無常という言葉が、まるでふさわしいかのように浮かんできたのか。

諸行無常を人が思うときは結果を観測して、過ぎ去ったものが見て取られたときだ。この世にあるものは一瞬ごとに変化し、不変のものはない。日本では儚さを表現する言葉として使われることがあるが、本来は仏教用語であるそれに、そういった情緒的な意味はない。ノスタルジーを催すものとして『なつもん!』を捉えたのなら、日本的な語法としてこの言葉を用いているのでしっくりくるだろう。過ぎ去った時間に対して思いを馳せている。しかし、『なつもん!』はノスタルジーとして大きく感情を揺さぶってくるゲームではない。そして問題は、「あの世」と「世界の終わり」を経由して「諸行無常」という言葉に至っていることだ。

『なつもん!』の景色に情緒を感じてそう言ってしまったのだろうか。それはたしかに否定できない。ただ私が『なつもん!』の景色から得たものを素朴に表すと、過去に思いを馳せているというようなじんわりとした感じ方ではない。過去が主題となるにしても、瞬間的なショックの強い、デジャヴに近い感覚だ。

「あの世」や「世界の終わり」といった景色を見たことのない人間は、それらを想像することしかできない。私には「あの世」へのイメージとして、いまの一瞬が永遠に止まった景色という感覚がある。切り取られた一瞬はこの先もう進むことはない。それが「あの世」であり、「世界の終わり」だ。そしてその景色の内にいる当事者はそれを永遠だと感じることはできない。永遠は、別の誰かが観測して初めてあの世だと認識される。
私というプレイヤーは、画面に映し出された景色を主人公・サトルが体験しているものとみなし、無意識のうちにその一瞬を切り取ることで、それを永遠だと認識した。そしてこうした一瞬の切り取り作業がおそらくこの先も何度となく起こり、これまでにも繰り返されてきたことが、プレイヤーに予測される。このような固有の一瞬を持った永遠を「世界の終わり」とし、それらがまた別の一瞬のおとずれによっていずれ再帰していくであろう様を「諸行無常」と表現したのではないか。

書きながら整理してみて、いまのところはこれが妥当に思える。おそらくこれが、同クリエイターの手がけた『ぼくのなつやすみ』が感じさせる郷愁としてイメージされるノスタルジーとはまた異質な、別のノスタルジーを生んでいる一要素なのではないか、という着想が涌いたが、他の要素との関連もあり、そこはまだ考えられていない。

どういう道のりでひとつの言葉が出てきたのか自問してみた。私は特別手習いをしたわけではないので、なぜそうなるのか、何を言っているのか、と思われる方も多いと思う。まだまだ考え方や他人に物事を伝える手段を身につけるために訓練がいる。ひとまずはここで終わりにするが、またこの問いに向き合っていこうと思う。




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