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サステナブル・SDGsに感じる違和感の正体

近年びっくりするほど目にするようになった、サステナブルやSDGsといった言葉。最近で言うと、菅首相の所信表明で柱に掲げたグリーン社会の実現や、日本と深い関係にある米国バイデン次期大統領のクリーンエネルギー革命の政策などが背景にあるのかもしれない。
それでもだ。あっという間に広がった、SDGs推進をアピールする企業やサステナブルを謳った製品。サステナブルな活動が「環境に良い活動していこう」という表面的な部分以外で、どのくらいの人が深い意味で社会とサステナビリティの関係を理解しているのか疑問に思い、自分の思いをここに綴る。

まず人と社会の関係についてだが、人は社会的な生き物だ。個人でも団体でも皆、社会という何千・何万もの歯車が絡み合った壮大なシステムの中での、歯車の1つだ。人は社会的といったのは、人はもはや1人では生きてはいけないからだ。細かく分業化された社会のシステムで、人は必ず誰かしらの仕事の恩恵に預かっている。そんな我々自身も社会を円滑に回すため1つの歯車となり、大なり小なりの貢献をしてお互いが知らず知らずに支え合いながら生きていっている。社会はそんな構図だ。
端的にいうとこの共存共栄なシステムを維持させることが人の役割となっていて、それを持続可能(サステナブル)にすることが責務となっている。
世の中は複雑になった。昔は、生あるものが”生きていく”ことだけを使命としていたが、今社会にいるものは生きていくために社会のシステムを”維持する"ことを使命としている。

社会のシステムを"維持"していく中でいくらか「世界的な綻び」が出てきている、環境問題や格差など。SDGsはそんな綻びを改修しようと17の目標を掲げ、「誰一人おいていかない」ことをモットーにしている。そしてこれは発信の仕方としては、”とても上手い”と思った。
そもそもだが、現在の社会を築き上げているのは紛れもなく現在存続している国や企業であり、今「置き去りになっている人」がいるのはいったい誰の責任なのか。17の目標といえば聞こえはよいが、それは裏を返していえば現社会における「17の失敗」ではないのか。それをすぐに是正するような処置:罰則を設けたり規則を設けたりもせず、15年もの猶予期間付きの「目標」へと挿げ替えた。国や企業が過去に犯した過ちに対して、出てきたかもしれないであろう批判、これをSDGsというブランディングで、応援歌へと変えた。これは見事としかいいようがない。

これまでの歴史の背景はとにかく、今まさにサステナブルがキーワードとして注目され、自分はうれしく思う。国や企業といった大きな集合体の目的がサステナブルな社会形成であったとして、個人の目的が何かと問われれば、それもやはり同じだと僕は思うからだ。ただ、無機質に歯車が絡み合うだけの社会だったり、単純にギブアンドテイクな世の中だけではなく、願わくば居心地のいい優しい社会であってほしい。

あらためてサステナビリティは何か?と聞かれるならば、それは社会を形成するようになった人類の生き様だ、と僕は考える。難しい横文字とか略語は要らない、その概念は前からあって、できたらやることではなく、当たり前にやっていかなくてはいけないことだった。それを今更「僕たちはサステナブル頑張っていますよ、偉いでしょう」と言われても「当たり前ですね」としか思えない。CSRでもSDGsでもなんでもいい、環境・社会・人々に対して配慮ある行動をこころがけてもらえれば。それはまた、個人にも言えることだ。

もしかしたら、サステナブルという言葉は気まぐれにも流行りが終わって収束するかもしれない。だけどきっとそれは違う言葉に置き換わって姿をみせるだろう。人々の生活の基盤を支える社会を、持続可能にしたいという想いは絶えないから。

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