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20240811学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第31章-3 ドイツとオーストリアとハンガリア

20240811
[ブルジョアジー、支配権を回復]

 ローザ・ルクセンブルグとカール・リープクネヒトが虐殺された事件の結果、独立社会民主党は政府から引き上げることとなり、すると右翼が台頭してきた。右翼は反革命的な国民議会召集政策を推し進め、1月21日に総選挙を行った。右翼の諸政党は左派をかなり引き離して勝利した。修正主義派の社会民主党は投票総数の39.3%を獲得したのに対し、独立社会民主党はわずか7.68%であった。共産党は選挙に参加しなかった。
 その数週間後に、ブルジョア的なワイマール共和国が樹立された。資本家たちは、右翼社会民主主義者であるエーベルト、シャイデマン、ノスケを推していた。資本家らが彼らを推した理由は、彼らが革命的労働者階級の攻撃に対して資本主義体制を守ってくれると信じていたからである。労働者をなだめる「アメ」として、議会の指導者たちは、産業の社会化、賃金引き上げ、住宅や教育の支援、労働者会議の支持等々、急進的な綱領を作り上げた。しかし、その綱領を実行する気は、彼らには毛頭なかったのである。議会は冷ややかに嘲笑い、「ソヴェトは新政府に対して勧告する権利を持つ」とした。こうした成り行きは、資本家たちにとっては申し分のないものだった。政府機関の支配権を取り戻し、革命圧殺を喜んで引き受ける右翼社会民主主義者を政府のトップに据えること、そして彼らを使ってヴェルサイユ条約に調印させること、それで良かったのだ。
 しかしそれから10年後、ファシズムの台頭に直面した時、この行為が社会民主主義者の首を、石臼のように締め上げることになるのである。

 1月の諸事件で無惨にも敗北したにもかかわらず、ドイツの労働者は諦めず、その後4年にわたりドイツ資本主義を倒すためにたたかった。しかし、右翼民主主義者が組織する反動勢力の手により圧殺され全て失敗に終わった。
 ドイツのブルジョアジーはロシアのブルジョアジーよりも力が強く、戦い方もうまかった。ドイツの労働者たちもロシアの労働者以上にブルジョア的幻想に取り憑かれていた。さらに、スパルタクス団(のちの共産党)の思想と組織力が弱かった。ベルリンの蜂起は誤りであったし、国民議会の選挙に参加しないことも誤りだった。こうした数々の誤りはドイツ革命が失敗する理由ではあったが、そもそもの根本的な理由は、中間派(言葉は革命的で行動は保守的な人々)の密接な援助を受けた右翼社会民主主義者の許し難い裏切りなのである。

 ドイツ革命が失敗したことは、第一次世界戦争後にたいていのヨーロッパ諸国が社会主義に移ることができなかった要因といってもよい。もしドイツ革命が成功していたら、世界資本主義は致命的な打撃を受け、世界情勢は一変していたはずである。それゆえ、ドイツ革命を邪魔した右翼社会民主主義者は、世界のファシズムの興隆、第二次世界戦争の人類殺戮、その他時代遅れの世界資本主義体制の寿命が伸びた結果生じたあらゆる社会的不幸について、犯罪人と同様の責任を負わなければならない。この不幸は今も終わっていないのだ。

[ハンガリアの革命]
 
 オーストリア=ハンカリア帝国は、第一次世界戦争に続く革命的大動乱の中で粉々に吹き飛んでしまった。そのあと結局残ったのは、かつては同帝国の広大な領土にあり、現在はその小さな部分にすぎないオーストリア共和国だけである。
 ここでの革命は主に民族解放によるものであった。ポーランド人、チェク人、スロヴァキア人、セルビア人、モンテネグロ人、クロアチア人、ハンガリア人が、帝国から分離してそれぞれのブルジョア共和国をつくった。オーストリアでは、ヴィクトル・アドラー、カール・レンナー、オット・バウアーが指導する社会党が数的に強く、広範にストライキを起こしたり、1919年5月の選挙の際にはブルジョア議会内で多数を占めるなど、戦闘的な戦いぶりを示した。国全体としては保守の諸党が議席の大部分を占めたが、ウィーンでは社会民主主義者が3分の2を占めた。

 ハンガリアではオーストリアと違い、動乱はブルジョアの段階では留まらず、社会主義革命に移ろうとしていた。
 1918年10月31日、大衆の圧力で旧政権は崩壊。ブルジョア民主主義者カロリー伯が臨時政府のトップとなった。彼は11月16日に共和国が作られた時、大統領になった。しかし、政治的経済的情勢は混沌としており、カロリー政府はそれ以上続けることはできなかった。1919年3月21日、政府はついに共産主義政府に政権を譲ることとなる。ここにプロレタリア独裁が確立した。新しい政府を指導する党は、社会民主主義者と共産主義者が合同したハンガリア社会党であったが、本当の指導者は、共産主義者である外務大臣、ベラ・クンであった。
 新しくできたソヴェト・ハンガリア政府は、当面する客観的困難があまりに大きく、そのうえ指導者が重大な政治的誤りを犯したため失敗した。連合国の直接の軍事的圧力により、1919年8月、共和国はついに倒れてしまった。
 この失敗の原因はさまざまであったが、中でも最も主要な誤りは、ソヴェト・ロシアの偉大な教訓に従わなかったことである。例えば、彼らは農民に土地を与えたばかりに農民を革命闘争に引き入れることができなかった。さらに、ブレスト=リトフスクでのレーニンの素晴らしい戦略を無視して、たとえどんなに大きな犠牲を払ってでも連合国と講和する機会を掴み損ねた。また、国の基盤も弱いのに性急に商工業の国有化を行なってしまい、政府はこれを維持できなかった。そして、彼らが修正主義者その他一切を含む社会民主主義者と合同して一つの党を作ったことである。レーニンはこの点を鋭く批判していた。

 ハンガリア革命が失敗したのは、これら指導上の問題とともに次のようなこともあった。
ドイツで右翼社会民主主義者が革命を裏切ったことが有害な結果をもたらした。オーストリア社会党はハンガリア人を助けるのを拒否したこと。ハンガリアの労働運動が全面的に弱かったこと。共産党の経験が浅かったこと。連合国が容赦なく武力でハンガリア共産党を撲滅したことなどである。
 ハンガリアのプロレタリア革命は、結局は儚い望みだったのである。

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