黒田基樹『羽柴家崩壊』

豊臣家は関ヶ原の戦いの結果、摂津周辺を収める単なる一大名になってしまった……と昔はよく言われていた。近年では豊臣家から徳川家の政権交代の研究も進み、両家はある時期まではともに諸大名を従える存在であったという「二重公儀政権論」も唱えられている。著者の黒田基樹先生は大河ドラマ「真田丸」で時代考証を担当したことをきっかけに豊臣家(黒田先生の記載に従うなら「羽柴家」)の資料に触れ、特に羽柴秀頼・茶々と片桐且元の関係に興味を持つようになった、とのこと。
関ヶ原の戦い以後の羽柴家とはどのような存在だったのか?
その謎を、三者の書状をもとに読み解いていく。

本書のほぼ全てが茶々・且元・秀頼らの書状の分析。特に方広寺鐘銘事件から片桐且元の大阪退去までのやりとりは全体の半分以上を占め、当時の緊迫した様子を伝えてくれる。

著者はいわゆる二重公儀体制には懐疑的のようで、羽柴家はあらゆる点で特別扱いされ、一時期までは親徳川系大名からも奉公の対象とされていたが、公儀を構成する主体ではなかった、とする。
関ヶ原合戦後の論功行賞は秀頼の「代行」として行われたが、大名たちに取って、領地を与えてくれたのは秀頼ではなく家康である、という認識がもたらされていた。家康はまだ完全な天下人ではないが、合戦によって領地宛行権を掌握した。そして1602年からは家康による領地宛行状も見られるようになっていく。
「天下人」家康が存在する一方で、主家として羽柴家が存在するという、小牧長久手の頃の織田家と羽柴家のような状況の中、家康は朝廷への官位執奏権を掌握し、羽柴家の家政と政権財政を分離する。そして関ヶ原後に大阪城に在城していた家康は、秀頼への年始の挨拶を「病気」として拒み、ついに伏見城に移ることで公儀と羽柴家を分離する。
この伏見への移転に伴い秀頼の領地が定められ、その結果、片桐且元への加増ですら、家康に頼まなければならくなった。そのことは茶々もはっきり認識しており、書状からはそれ自体を問題視している様子はないという。
関ヶ原後の羽柴家は「単なる一大名ではなかったが、「公儀」を構成する側でもなかった、という、政治的には極めて曖昧な存在であったとしか言いようがない」

秀頼の立場は官位の上では家康以下、秀忠以上。天下人ではないが、有力な天下人候補ではある。
なかなか感覚的に理解できないけど、紹介されている伊達政宗の書状が面白い(有名な物らしい)。
それは堺の今井宗薫に当てた書状で、「秀頼を家康の手元で育てて、天下人に相応しいなら政権主宰者にし、そうでなければ二カ国の国主にでもすれば良い」という趣旨のもの。
天下人の地位とは必ずしも世襲ではなく、その時々の実力者が成るものであるという認識が政宗にあった、と著者は言っている。
他の大名も同じような認識だとすると、天下人家康とその体制を支持することと羽柴家への忠誠というのは矛盾しないわけですね。

さて、徳川将軍家は何かと羽柴家を特別扱いして配慮して来たが、いつまでもそのような曖昧な存在は容認できず、方広寺の鐘銘事件を通して羽柴家に一大名となることを求める。
且元としては羽柴家が将軍家麾下の一大名となることがお家安泰の道だと考えていたが、家中の統制ができなかった。
もともと家中で絶大な権限を持つ且元への不満が羽柴家内にあり、茶々の親族衆である織田頼長(またはその父親の有楽斎)、茶々の乳兄弟である大野治長らは且元の追い落としを図る。
茶々や秀頼は且元を慰留しようとするも、大野治長、織田有楽斎らとの対立は避けられず、ついに片桐且元は大阪城を退去、大坂冬の陣に発展する。
退去した且元に変わり、織田有楽斎、大野治長らが羽柴家への家政を担うが、彼らも政治経験には乏しい。有楽、治長らは大阪城の堀を内堀まで含めて全て埋め立てるという条件(内堀まで埋めたのは徳川家の策略ではなく、当初からの和睦条件だったらしい)で冬の陣の幕引きを行うも、迎え入れた浪人たちが勝手に堀を掘り返し、夏の陣へと発展。最後まで降伏するという決断ができず、当時の作法に則り、徹底抗戦した者として茶々も秀頼も死なざるを得なかった。

大阪冬の陣前の書状を読む限り、織田頼長、大野治長らは徳川家との一戦を覚悟していたが、茶々や秀頼に、且元を追放すること=徳川家との合戦となるとどれだけ理解していたかは怪しい。
もともと柴田勝家滅亡後に秀吉の妻となり、ずっと政権主催者の地位にあった茶々に、徳川家に一大名としての屈服するという考えは馴染みのないものだったと思われるが、果たして徳川家に服従するくらいなら死を選ぶなどと覚悟を決めていたか疑問だと著者は語る。

茶々には親がなく、親からつけられた政治経験のある家臣団もいなかった。そのことが、家中の統制の不徹底、徳川方との交渉の破綻に繋がったのだった……

著者が描く羽柴家の滅亡の経過は以上のようなもので、羽柴家内の権力争いがコップの中の嵐で済まなくなってしまった感じ。とにかく実家が滅び、頼れる家臣団のいない茶々の悲哀を強く感じる。同時に小牧・長久手の頃の織田信雄・家康って上手く妥協したんだな、と。本書を読む限り大野治長や織田頼長らの印象は良くないのですが、羽柴家内の且元の権力は絶大だったようなので、頼長はともかくとして、治長には彼なりに思うところがあったんですかね。
ところで謎なのは織田頼長という人物。織田有楽斎の次男で、「天下の傾き者」と言われていた彼は、秀頼を追放してでも徳川家と戦うことを主張していた。片桐且元誅伐の急先鋒だが、一体どこまで父親の有楽斎と意思統一されてたんだろうか?

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