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気付きを得てから1ヵ月程の間に身の回りに起きた体験談①

自分にとって、大きな気付きを内観で得てから何かが変わっているのを実感する日々が始まった。

心が軽くなったせいか、とっても穏やかな時間が過ぎていく。
今までと変わらない生活をしているのに、穏やかなフィルター越しに目の前が過ぎていく。

数日たった朝に、ふと顔を洗うと、なんだか違和感を感じた。
鏡を見ても、自分が自分じゃない感覚が伴う。
変だな~と思いながらも、朝の準備に追われていった。

2~3日やはり、体感的にもふわふわしてる。
仕事中も、苛立つこともなく、気付けた喜びにまだ体が高揚してるのか?と思いながら過ごしていた。

夜になると、内観は日々するようになっていた。
あの時の気持ちは何がそうさせていたのだろうと、自分の中で未処理で終わっている感情を片付けだしている。

そうか、そうか、そんな思いが私の中にあったのかと、教えて貰えることが嬉しくなっていたのかもしれない。



初めの気付きから1週間程たった日の朝のことだった。
家は、住宅街から離れていることもあり子供を学校まで送迎している。
その日は仕事がお休みだった為、送った後にコンビニに寄り帰ろうと車を進めている頃、ふと自分の自宅の近くに障がい者施設が出来たことにも何か意味があったのかな~と思いながら、彼らがいつも通りすがる時に屈託のない笑顔で挨拶してくれたり、道路を掃き掃除してくれたり、農作業を一生懸命やっている姿が思い出された。

この十何年私は彼らの心の綺麗さに胸を打たれている自分が居たな…

と感じていた瞬間の出来事だった。
私の右脳より少し上、頭蓋骨のきわ辺りにブワっと言葉が降る


「人間は尊く 愛おしい」


え?!っと思った時には私の視界はまるで過去のシーンをスローモーションで映す映画のエフェクトのように…


通学する学生の後ろ姿…


玄関口を掃除する人…


朝の散歩をしている人…


目にする人々が、まるで動物園で自分が動物たちに可愛いなと眼差しを向けるのと変わらぬ感覚で愛でている。


わぁーーーと動揺する私は妙なのに、とても穏やかで厳かな感覚が眼上にある。涙が溢れてくる。止まらなく涙が溢れてくる。

ピークに感覚が去った後、何これ、何これ?と変わらず涙を流しながら車を走らせて坂道を上った瞬間、出く合わせた車にハッとし逆に冷静さを取り戻した。

帰宅し、今の出来事をノートに残そうと部屋に入る前、洗面台の鏡に映った自分の姿を見て私は呆然とした。


これは被り物だった…
まるで着ぐるみだと…


直感で感じた…。
怖かった。怖かったと思う。
でも、すぐにその怖さは引いていった。


それが人間なんだ。


人生。


人を生きる。


日本語とは良くできたものだなと妙に冷静な私も居た。



その後、出掛ける予定があったのでまた車に乗って街を走る。
体感的な妙な感覚はまだ残っていて、通りすがる乗用車や、トラック、街並みを見ていても、まるで初めての国の街を走っているみたいに、こんな車の形なんだ…へーこんな乗り物もあるんだーと新しいものを見てなるほど~と感じている。


これがどうゆうものなのか、私にはハッキリ分からないが、とても不思議な体験をした日だった。


後に、あの「人間は尊く 愛おしい」と感じた後の、人間がまるで動物園の動物を見るように感じたのは、何だったのだろう?寧ろ人間に対してそんな風に思ってしまった(感じさせた)自分が周りに対して失礼だなって思った。

でもね、今はその失礼だなと思った自分が人間としての自分の思い上がりであったと感じている。

この地球は人間だけのものではない。
宇宙があり地球という大地の上で生きるもの
それぞれの生き物が生きている
人間だけが特別ではない
循環の中で私たちは生きていけている。
自分たちの我欲だけに走ってはいけないと教えられた気がする。

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