コロナ禍で存在を消された私たち あとがき

「できれば、あなたたちに出会いたくなかった」
「出会えたことに感謝」

相反するものだが、これはどちらも、感染疑いとしてTwitterで出会った仲間のツイートである。どちらも本音であり、多くの感染疑いの人が感じていたことだろう。
誰もが好き好んでこの体調になったわけではないし、娯楽のためにTwitterをしているわけでもない。毎日生きるために必死に情報を集める一方、唯一理解し合える仲間のことを拠り所にしていた人もいただろう。
人によってはTwitterを見るのが辛くなりやめた方もいるし、体調が改善したことでTwitterから離れた方もいる。
どちらもある意味、Twitterからの卒業である。

社会的に世の中に存在しないとされてしまった私たちは、Twitterの中で生きてきた。
Twitterで出会い、毎日のように会話し、お互いに生存を確認し、症状緩和のために情報交換し、時に心配し悲しみ、時に励まし合い、時に喜びを共有してきた。
ある人はいち早く海外の論文データを読んで考えをツイートしたり、ある人は海外のLong COVID情報を追ったり、ある人は社会に対する疑問をツイートしたり、ある人は行動を起こし様々な人とコンタクトを取ったり、ある人は様々なアンケートを実施したり、ある人は同じ症状の人を集めたグループを作って意見交換したり、ある人は直感力でどんどん新たな治療法を取り入れたり、ある人は身体の仕組みについて勉強したり、ある人は日常の空や花の写真を投稿して癒やし、ある人は飼い犬や飼い猫の写真を投稿して仲間を和ませ、ある人はどんな時でも冷静でいたり、ある人は周囲を明るくし、ある人はひたすら苦しむ人に寄り添うなど、私たちはTwitterの中である意味ひとつの「社会」を構築していた。

しかし、Twitterを使うデメリットもある。社会はそんなに甘いものではなく、私たち社会的弱者に漬け込む人は、現れるのである。
私たちに寄り添うふりをして近寄ってきた人に騙されて高額なサプリを買ってしまった人もいれば、私たちを助けるふりをしてかき乱しひどい言葉を投げられた人もいる。
私たちはコロナ禍において自身の状況を証明する術のない少数派の弱者であり、暴言を受ける対象にもなりやすかった。
Twitterで医師を名乗る人から「不定愁訴だ」「発言を控えるように」と言われた人もいれば、私たちの存在を認めたくない人からは「嘘だ」「工作員だ」などと、症状までも否定される言葉を何度も何度も浴びせられてきた。仲間の一人が多数の人から攻撃され続けた時は、他の仲間がフォローし、鍵垢(非公開アカウント)にすると良いなどとアドバイスを行った。
私たちに攻撃的になった方の中に、コロナ禍により経済的打撃を受けた者も一部みられたことから、これらの現象は社会経済情勢から来る不安やストレスも大きな要因だったと考えられる。私たちの存在を公にしなかった国の隠蔽体質やメディアの偏った報道も、未知ゆえに恐れ、未知ゆえに攻撃的になる風潮に拍車をかけたのだろう。

情報面においても不確かなものがいち早く流れるのがTwitterだ。中にはデマ情報や誇張された情報もあるし、〇〇が体に良いという情報が流れると逆の悪いという情報が流れてくる。しかし、その中にも真実はあるし、体調が改善する情報もあった。中には嘘と真実が混ぜられた巧妙なものや、意識を誘導される情報もある。言わば、「情報戦」である。
仲間の中には情報の波に飲み込まれ、混乱し余計に心身を悪化させてしまった人もいる程、情報過多になっているのが実情だった。何が正しくて何が嘘か、自分にとって必要な情報を「拾う」「見定める」、違和感の強い情報に「気づく」、そんな直感力を鍛えられてきた人も多いのではないだろうか。

不特定多数の人が簡単にアクセスできるSNSを、安全に平和に使うというのは、確かに難しいところがある。しかし、それ以上に、大切な出会いも多くあり、様々な情報に助けられてきたことも事実だった。
いち早く新型コロナ後遺症の診察を始めた医師と簡単に繋がれるのもTwitterであり、新型コロナの治療薬としても期待されるイベルメクチンの基礎研究をしている大学教授は、Twitterを通して私たちの症状のデータを集めて研究に役立てようとしてくれている。

私たちは感染疑いとして苦しみ、皮肉にもそれで繋がり合うという横の糸ができ、そして、今はその横の糸から派生して、完治・完治していないに関わらず、各々が課題や目的を見つけ、縦の糸を紡ごうと歩き始めている。
早々にTwitterから卒業しPCR検査センターを始めた人もいれば、自らの経験を生かして起業し、症状に苦しむ人の助けをしている人もいる。

今、「note」というwebサービスを利用して私たちの記録を公開している( URL https://note.com/recordofcovid19 )が、ゆくゆくは紙媒体での出版を目指している。
読者の方は、当noteの中で共感できる記録に出会う事はできただろうか。当時、周りから理解されず、人知れず苦しんできた思いを、少しでも癒す機会となれただろうか。Twitterを早々に卒業されていった方々にとっても、ここが当時の思いを整理する場所となれただろうか。また、各自の記録から、少しでも気づきのヒントを得られることはできただろうか。

私たちのような新型コロナ症状当事者に関わらず、2020年からのコロナ禍は多くの人が様々な苦しみを抱えていた。大好きな孫に会えない祖父母、コロナに関わらず入院した身内のお見舞いに行けない家族、結婚式をキャンセルした夫婦、自分のお店をたたむ決断をした方、減給やリストラされた会社員、保育所が閉鎖になり仕事との両立ができなくなった親、大学に入学したのに誰とも会えない新入生、修学旅行や行事がなくなった学生、友達と遊ばせてもらえない小学生、皆それぞれ、様々な悲しみやストレスを感じながら生きてきた。
社会ってなんだろう、人間らしさってなんだろう、生きるってなんだろう、自分ってなんだろう、その根本を見つめ直す機会が、コロナ禍だったのかもしれない。
私たちの記録を通して、社会の問題、世の中のあり方、病いとは、人間とは、何か少しでも感じ取って頂けたら幸いである。

私たちの個々の記録からも分かるように、同時期に同じような症状を発症し、世間から同じような対応をされてきたにも関わらず、同じ内容の記録はひとつもない。
医療とのやり取りに重きをおいた記録、仕事と生活面に重きをおいた記録、認知の薄い病を広める記録、精神面に重きをおいた記録、初期という不安な心情を描いた記録、周囲との乖離に重きをおいた記録、家族や子供のことに重きをおいた記録、徐々に導かれていく記録、気づきに重きをおいた記録。
各々の戦いの記録と気づきをここに残すことで、記録作成者はそれぞれ自身の記録を通して共感できる方を癒やす使命がある。私たちは社会から消されたとしても、一人ひとりに確かな役割があり、欠けてもよい存在などいない。

私たちが住むこの地球は、言うなれば、ひとつの木。
誰かは、彩り豊かな花びらかもしれない。誰かは、しなやかな枝の先端かもしれない。誰かは、鮮やかな色の葉っぱかもしれない。誰かは、太くたくましい幹かもしれない。また誰かは、見えない根っこや、見えない根を支える土かもしれない。
それぞれに役割があり、それぞれが必要不可欠な存在として、互いに養分を補い合いながら影響し合い、その木を成している。

見えない根や土の中とは、見えない存在という意味では、公には語られにくい多くの不可視化されてきた人々の存在や事柄とも重なる部分がある。

地上にある見えている幹、枝、葉っぱや花が、今どのように育っているかは、目には見えない土の中の状態によって大きく変わる。土の中には様々な役割のある微生物たちが住んでおり、土の中の環境バランスを保つことで、根から様々な養分を送り地上の木は成長している。
土の中の者たちが涙に明け暮れる毎日を過ごせば、次第に根は腐り、地上の木も倒れてしまう。腐らずとも、そのバランスが崩れれば、木は花を咲かせないどころか次第に枯れてしまう。
今の日本の状態は、まるで倒れつつある枯れた木の枝のようである。それは、見えない土の中を蔑ろにし、不可視化された存在たちの叫びや涙を軽視してきた結果とも言えるかもしれない。
土の中と向き合い、生きた土を育てることが、地上の木を育てることになるとも知らずに・・・。それは、真実を見ようとすることなしに、新たな枝が芽吹くことはないことを意味しているだろう。

2020年から私たちが経験し得られた気づきとは、新たに生えてくる芽吹きのための、土の中の養分だったのだ。経験や気づきとは、過去から未来に紡ぐ木に成長させるための、大地の栄養。
この芽生えた萌芽が、いずれ、更に深い緑が生い茂る木に成長するよう、この木を、この大地を、この地球を、大切に愛でていく。

私たちの記録と出会ってくださった方々に、心より感謝を込めて。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?