【エッセイ】不便という価値

不便というとマイナスなことと思いがちである。
思いがちというか完全にネガティブな意味を持った言葉である。

もちろん一般的には、不便であるよりも便利である方がよいだろう。

物やサービスはストレスなく扱える方が良い。
早くて安くて分かりやすい。
そんな物が求められているのだろう。

しかし、本当にはよいのだろうか。
それだけではなく不便なものにも別の価値があるのではないかと思う。

例えば、ネットのストリーミングサービスだ。

映画やドラマなど様々な映像作品がスマートフォンを少し操作するだけで手軽に再生する事ができる。

しかも定額料金制で幅広いジャンルをカバーしている。

これはとても便利だ。
私も多く利用している。

十年ほど前まではレンタルビデオ店まで行き、見たい作品を探し、一つ一つの作品に対してお金を払い、家まで帰って視聴していた。

今の現状と比較して考えると、とても時間も手間もお金もかかっている。

だけれども、そうやって労力を使って見たものは、集中して見ることができる気がする。
返却までの一週間のうちに見ないといけないとか、すでにお金を払っているとか、そういう類の適度なプレッシャーを受けることで、作品にのめり込むことができていたと思う。

これは旅行で、ご当地料理を食べるのにも似ている。

今の時代、流通は発達しているから、日本全国のご当地料理は近くの繁華街で容易く食べることができる。
ただ、その土地のご当地料理はその土地で食べないと特に味わいもせずに食べてしまう。
料理の味や見た目としての情報を記憶する事は可能だが、それが感動を生み出すことは少ない。
やはりその土地で食べるからこその自分の気持ちの高まりのようなものが必要なのだろう。

それが、映画やドラマなどの映像作品にもあるのだろう。

ある意味テレビの地上波も同じかも知れない。
いつでも見ることのできるネット番組ではない生放送は、生であるというライブ感に加え、そのときにしか味わえないことによる不便さにも価値の一つなのだろう。

便利になることで人の能力は退化するというが、能力だけでなく感性も退化してしまうのではないか。

自分の生活にももう少し不便を増やしてもいいのではないかと思う。

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