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第13回「ブックマン瀬戸川猛資⑦」

 前回に続いて瀬戸川猛資の新聞書評についてご紹介しよう。今回は、前回も触れた〈毎日新聞〉「今週の本棚」に寄稿された書評を主テーマとする。
 新聞の読書欄というものはそれこそ新聞の数だけ存在するだろうが、その中でも「今週の本棚」は成り立ちの経緯が明らかになっているという点が興味深い。前回も紹介した丸谷才一のエッセイ「三ページの書評欄の二十年」からその部分をかいつまんで紹介しよう。

・一九九一年六月に毎日新聞編集局長に任じられた齋藤明は、社長の渡辺襄から「相手は朝日新聞だ。まず、向こうがどうあがいてもかなわないものを何か一つ作ってくれ」と要望される。
・当時、雑誌〈東京人〉では「東京ジャーナリズム大批判」(※1)という連載鼎談を掲載しており、丸谷才一はそれに毎回参加していた。その一九九一年十二月号で「大新聞の書評」が扱われたが、それは朝日毎日読売をはじめ、あらゆる大新聞の書評を全否定する調子のものだった。
(※1:ちなみに、瀬戸川はこの「東京ジャーナリズム大批判」の「ハヤカワ・ミステリは遊びの文化」という回に向井敏とともに参加したことがある(18号[一九八九年二月]))
・翌年二月下旬、齋藤は丸谷(面識はあったが一度立ち話をした程度)に、「書評欄を刷新するに当たってすべてお任せしたい」と電話し、丸谷はそれを快諾。四月下旬からの「今週の本棚」立ち上げに向けて動き始める。

「今週の本棚」は、イギリスの雑誌や新聞における「書評欄」を日本の新聞に本格的に導入・定着させたいという丸谷のロビー活動(※2)の最たるもので、原稿用紙五枚の大書評二点、三・五枚の書評五点を三ページに渡って展開し、毎回の挿画を和田誠に任せる、という大変余裕のある、かつ豪華なものに仕上がっている。各書評家が取り上げる本は、編集部に宛がわれたものではなく、新刊近刊の中から各々自ら目ぼしいものを選び発注、必要に応じて編集部の方で調整するシステムを取ったという。
(※2:丸谷のこの野望がよく表れているのが〈SWITCH〉〈鳩よ!〉などの雑誌の連載をまとめた『ロンドンで本を読む』という書。これはイギリスの新聞や書評誌に掲載された評論家や作家の書評を翻訳してまとめた本で、二〇〇〇年に刊行された。掲載されている原稿で最も古いものは一九九〇年九月のものである)

 第一回に当たる一九九二年四月二〇日号から早速登場しているところからも、「若き俊英」瀬戸川への丸谷の信頼の厚さが見て取れよう。とはいえ、瀬戸川の毎日新聞での仕事はそれが初めてではない。前回リストにて示した通り、一九八八年七月十日から「リレー書評」(日曜別刷版掲載)に参加しているのである。このコーナーは毎回原稿用紙二・五枚程度で書かれたもので、日高晋、川本三郎、向井敏の三人と四人で週替わりに連載を回していた(一九九一年八月四日号まで)。瀬戸川はこの欄に三十九回寄稿しており、初期は翻訳ミステリ一辺倒だが(アンダースン『血のついたエッグ・コージー』、トゥロー『推定無罪』など)、徐々にノンフィクションの割合が増して最終的には一対一くらいまでに増えているのが面白い。なお、彼ら四人は「今週の本棚」にそのまま引っ越す形で寄稿を継続しており、その人気・実力のほどがうかがえる。

 閑話休題。「今週の本棚」への瀬戸川の寄稿だが、全七十八回(+短評二十六本)と相当の数に上る。均してみると六年半に渡って月に一本長文書評を掲載していたということになり、その継続性と熱量には驚かされる。流石にすべての原稿を取り上げることはできないが、代表的なものをいくつかご紹介したい。ここで役に立つのが、前回から再三に渡って登場している丸谷才一・池澤夏樹編『毎日新聞「今週の本棚」20年名作選』である。この本は、1992年から2011年までの「今週の本棚」に掲載された書評で構成されたアンソロジーで、三分冊がそれぞれ400ページ越えという超大冊である(特に第三巻は、巻末に執筆者ごとの目次が収められているとはいえ500ページを優に超える)。それでも収められた原稿は全体からすればごく一部に過ぎないというのが凄まじい。その選び抜かれた中に、瀬戸川の書評は七編収められている。以下がそのリストである。

中薗英助『スパイの世界』(1992/5/11)
クセノポン『アナバシス』(1993/7/18)
丸谷才一/新井敏記編『丸谷才一 不思議な文学史を生きる』(1994/8/29)
和田誠『お楽しみはこれからだPART5』(1995/6/13)
荒川洋治『言葉のラジオ』(1996/4/8)
ウィルキー・コリンズ『白衣の女』(1996/5/13)
岩波文庫編集部編『岩波文庫解説総目録 全3冊』(1997/3/30)

 それぞれの読みどころを、以下簡単にまとめてみたい。

 中薗英助『スパイの世界』は、スパイ小説の第一人者である著者がなんと「岩波新書」から出した「スパイの概説書」である。こういった概説書というのは「専門家」(それこそ、実際にスパイであった人など)が書くものではないだろうかという素朴な疑問から、瀬戸川は論を始める。スパイという存在の本質は活動や組織のような現象的な問題ではなく、むしろスパイその人の内面、その人間性にあると喝破した瀬戸川は、それゆえに本書は「文学者」である著者が書くのにふさわしいと論じている(つまり、本書は「読者の啓蒙」を企図した岩波新書としてはかなり異色である、というわけだ)。
 スパイの歴史、スパイ教育の実態、スパイ小説と現実の世界のスパイ活動など、本書の中では様々な角度からスパイの詳細が描かれているが、瀬戸川は結びにあたる「著者あとがき」に注目する。

《ここ十年ほどは、ようやく本来の仕事に立ち返っていた。が、二十世紀の終幕を待たず、ソ連共産圏の崩壊と冷戦構造の消滅という右のようなジャンルの根底をゆるがすような一大変化が起こったとすれば、これまで書いてきたものを見直し、総括する必要がありはしないかと考えたとしても当然ではなかろうか》

 この文に対して瀬戸川は、本書は「啓蒙書」の体裁をとりつつも同時に著者の「自己の文学的軌跡の再確認作業」であったのではないかという読みを入れ、厳粛に向き合うに値する作品だと評した。

『アナバシス』は、古代ギリシアの著述家クセノポンによって書かれた書物で、岩波文庫に入った本書は初の完訳(筑摩書房、一九八五)の文庫版である。元版は高く評価され、読売文学賞の翻訳・研究部門を受賞した。その文庫化にあたって添えられた「敵中横断6000キロ」という副題が、瀬戸川の胸をときめかせたらしい。曰く、「そういう大脱出行の記録なのだから、ジュール・ヴェルヌの『皇帝の密使』(これも敵中横断六千キロ)や山中峯太郎の『敵中横断三百里』(これはキロ換算すると一二〇〇キロたらず)も顔負けで、まさしく胸おどる古代の冒険ドラマではないか」。しかし、この期待ははかなくも裏切られる。「冒険的なスリル、サスペンス、リアルな人物描写。そうした要素は、ここには見られない。戦争の悲惨さ、などということも全く考えられていない。そういうものを期待すること自体、近代主義に毒されているので、古代の書物を読む態度ではないのだ」。では、何を読み取るか。
 ここでポイントになるのは、クセノポンの描写の見事さ、的確さだ。ペルシアの王子キュロスが謀反を起こすのにギリシア人の力を借りること(クセノポンは傭兵隊の一員としてこの戦争に参加した)、すなわち、文明圏という観点ではエーゲ海を中心とした西欧世界と中東世界は古代には隣接していたことを本書は改めて認識させてくれる。それはギリシア兵の勇猛果敢さ、民主的であること、そして論理性といった点にも言える。具体例をもってそれらを理解すること。それもまた古典を読む意義なのである。

『丸谷才一 不思議な文学史を生きる』は、丸谷才一に近代および現代日本文学史を語らせたロング・インタビュー二本を軸にした本である。これを瀬戸川はほとんどバナナの叩き売りのような調子で売り込み始める。

「誰だあ?
文学がおもしろくないなんて言うのは? 文学は痩せているとか閉塞状況にあるとか、そんなことばかり言ってるのは? こーんなに(と本書を手に取ってかざす)おもしろいじゃないか。やっぱり、文学は映画やテレビよりもおもしろい。パソコンよりもヴァーチャル・リアリティよりもおもしろい。それがおもしろくないのは、そもそも文学に興味がないからなのだ。そういう人は、黙って『ねるとん紅鯨団』でも観ていなさい。」

 瀬戸川猛資が丸谷の文学/評論をどのように評したかという点は回を改めて述べるが、「(常識とされる事柄に対して丸谷が戦闘的であるのは)日本文学の常識必ずしも文学の常識にあらず、という確固たる信念を持っているからなのだ。厖大な量の書物から得た知識と体系的思考、それに作家としての想像力・分析力その他で、そういう結論に達しているのだ。あくまでも推測で言うんだけどね。」と、こーんな口調でサラッと書いてしまう「本質直観」のキレはさすがと言わざるを得ない。しかも、瀬戸川の話芸に引っ張りこまれて、丸谷とインタビュイーの新井敏記の真剣勝負にうっかり興味がわいてきてしまう。新聞書評としては思いきり型破りであるが、百点満点を超えて百二十点を与えたくなる、そんな一品。

 と、一本一本があまりにも面白くてつい色々と書いてしまいますね。残り四本と、それから三門好みの何本かについては次回紹介するので、そちらもよろしくお付き合いのほど、お願いいたします。


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