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第11回「ブックマン瀬戸川猛資⑤」

 さてここまで、〈BOOKMAN〉を皮切りに〈バラエティ〉〈週刊宝石〉、といわば「コミュニティの内側」における瀬戸川猛資の活動を見てきた。既に述べたように、70年代末から80年代前半の瀬戸川は、ワセダミステリクラブの後輩で、当時既に強力な編集者となっていた秋山協一郎による引き合いも含めて、学生時代に書いた〈ミステリマガジン〉以外の様々な媒体/ミステリ書評以外の様々なジャンルに進出し、最終的には自分自身の書評誌を作り上げるに至った。ここからは、それ以外の誌面で瀬戸川がどのような活動をしていたかを見ていくことにする(と言っても瀬戸川は「常に人間関係の輪とともにある」という類の人間で、新たな領域に進出したとしても、そこでもまたコミュニティを築き上げてしまうのだが)。

 今回は、文藝春秋の各媒体における瀬戸川の活動について記す。文藝春秋と瀬戸川の関係は短いが、かなり濃密なものとなっている。彼が文藝春秋の媒体で初めて書いたのは、〈週刊文春〉の読書コーナー「文春図書館」の短い寄稿である。これは連載というほど定期的なものではなく、その数も(現在確認されている限りでは)13本に過ぎない。第一回(1983/10/6)は「歴史の謎をめぐるミステリ」として、当時江戸川乱歩賞を受賞し、刊行されたばかりの高橋克彦『写楽殺人事件』の書評を、紀田順一郎とページを分け合う形で寄稿している。高橋作品について瀬戸川は、後に『総門谷』を書評で酷評していたりするが(〈正論〉「ミステリー昨今」において)、この第一作は称賛し、著者の今後に期待するといった形で締めくくっている。
 この欄で取り上げられた作品の例をいくつか挙げると、『現代用語の基礎知識』(1984/1/26)、豪華本の写真集『森へ』(1984/3/1)、旺文社の内田百閒全集完結に際して刊行された『百鬼園寫眞帖』(1984/8/2)と、多種多様であることが分かる。中央公論社が片岡義男監修で出した「ペイパーバック・ウェスタン」(1984/9/13)や東京創元社の「日本探偵小説全集」(1984/11/22)を創刊時に扱うなどミステリ方面にも目を配ってはいるものの、どちらかといえば多分野に渡る時評という趣である。これら瀬戸川の〈週刊文春〉への寄稿は、概ね1983年下半期から1984年一杯という短い期間に限られ、コーナー化されることもなかった(ただし、90年代に二度、小林信彦『コラムにご用心』(1992/6/25)と生島治郎『浪漫疾風録』(1993/12/2)の書評を寄稿していることは記しておく)。

 続いて〈文藝春秋〉にて、1985年3月14日号から始まったのが、「瀬戸川猛資の本をめぐる人びと」という連載である。これは1986年9月11日号まで全29回+特別編という形で続いたもので、瀬戸川猛資と〈文藝春秋〉の編集Hが、毎回本に関する様々な人のところにインタビューしに行くという企画である。ベストセラー『金魂巻』の仕掛人である敏腕編集者を振り出しに、貸本屋、校正者、取次返品倉庫の担当者、毎日ペーパーを作る書店員、「書皮友好協会」の会長、製本会社の取締役……と普段読者の目には見えない、本に関わる様々な人たちの姿を浮き彫りにしていく。とはいえ、大真面目なルポルタージュという風ではなく、ただただ瀬戸川が素朴に「これどうなってるの」「これ面白いね」と反応したことから編集者が相手を探して……といった具合で、限りなく読者目線に近いのが特徴である。「業界の裏方の人に話を聞きに行く」というテーマのインタビュー集は多くあるだろうが、本作りや本の販売に特化したものとしては、これが至極のものであろう。
 ちなみに第一回は「ベストセラーの作り方」として、編集者が打った様々な施策について語ってもらっているのだが、マスコミ各社に特製のうちわを送った、早稲田の学生に「金魂巻クラブ」を作ってもらった……など、なるほど何でもやってみるとはこういうことかと唸らされる。今ならSNSで仕掛けるとかそういう風になるのかもしれないが、80年代ならこうやるというのが面白い。新刊書店・古本屋に置かれた本に勝手にペーパーを挟んでいく謎のゲリラ的集団「乱調社」の代表・浅羽通明に会いに行ったり、新潮文庫のキャンペーン「新潮文庫の100冊」の内実(コピーは誰が作っているのか、キャンペーンを張って、実際どのくらい売れているのか)を暴きに新潮文庫の編集部に突撃したり、難解な内容・膨大な分量ながら、アメリカでの評判の余波もあってベストセラーとなったダグラス・R・ホフスタッター『ゲーデル、エッシャー、バッハ』を出した極小出版社・白揚社の編集部に、その編集苦労談を聞きに行ったり、出版科学研究所というベストセラーの集計をしている調査研究機関を訪ねたり……変わったところでは、講談社インターナショナル株式会社の副編集長に、日本の本を海外向けに翻訳出版する際の事情を聴きに行くなどしている。ちなみに最終回の特別版では交通各社にアンケートを取り、電車内に置き忘れられた本について調査するという内容。ここまで様々なプロに話を聞いてきたところ、振り返って「一般の読者」を浮かび上がらせようとしている……といったところだ。
 この連載が興味深いのは、これ自体が80年代の書籍文化の一幕を見事に切り出したものになっているということである。雑誌文化を中心に、出版社/マスコミが読者にコミットしてベストセラーを「作り出す」時代。瀬戸川はその仕組みの裏側を「何でも見てやろう」の精神で暴き出していくが、青臭くそれらを批判するわけではない。彼が徹底しているのは、本を作るにも(出版社の編集者から、製本業者、栞紐の業者のような出版社の下請け業者を経て、売れなかった本の終着地点である返品倉庫の担当者まで)、本を売るにも(新刊書店から、古書店、貸本屋を経て、本を媒体に勝手に自己宣伝をする不届き者wまで)そこには必ず人間が絡んでいて、彼らは色々なことを考えているということを明らかにする態度である。お気軽で軽薄な企画のように見えて、結構ジャーナリスティックなのだ。
 こういう時代に寄り添った企画というのは当時読んでも面白かっただろうが、むしろ40年後の今読んでこそ新たな発見がある。しかし、残念なことに書籍の形にまとめられておらず、気軽に読む方法がない。関係者に連絡を取る手段も限られており再録は絶望的で、おそらく雑誌の山に埋もれてしまう運命であろう。読者の皆様に国会図書館に立ち寄る機会があれば(あるいは、デジタルコレクションで遠隔複写を試す気持ちがあれば)、ぜひご一読いただきたいシリーズである。

 文藝春秋と瀬戸川猛資といえば、当然「東西ミステリーベスト100」を外すことはできない。ご存じの方も多かろうが一応説明すると、これは〈週刊文春〉1985/8/29号と同年9/5号に掲載されたアンケート企画で、古今東西の名作ミステリーを海外・国内それぞれ100冊ずつ選び出そうというものである。雑誌の同号にはリストを肴に権田萬治、郷原宏、内藤陳、そして瀬戸川猛資の四人が行った対談が掲載されている。なおこの対談は後に、2013年1月に〈週刊文春〉の臨時増刊号として刊行された「東西ミステリーベスト100」に再録された。この号は『東西ミステリーベスト100』と題して、文春文庫で同年11月に刊行されたものの、1985年版の対談は未収録である。
 この2013年に刊行された臨時増刊には、作家の北村薫と折原一の対談「わが青春の『東西ミステリー』」が掲載されているが、この対談の中では1986年12月に文春文庫から刊行された『東西ミステリーベスト100』の原稿がどのように集められたかという秘話が公開されている。ある日、ワセダミステリクラブの先輩である瀬戸川から喫茶店に呼び出された二人は「文春から至急の仕事だ」と言われ、海外・国内併せて200冊の中からそれぞれ20冊ずつ、あらすじと「うんちく」をまとめて書いてほしいと依頼されたのだそうだ。急ぎというからには1986年の夏頃の話だろうか。ちょうど〈文藝春秋〉誌上で「瀬戸川猛資の本をめぐる人びと」が終わるくらいのタイミングなので、取りまとめ役として瀬戸川を据えるのにいいタイミングだったのかもしれない。もしピッタリ20冊ずつ分け合ったとすれば、1986年の夏、10人の若者が原稿に追われていたはずだが、その場に他に誰が居合わせたのか気になるところだ。4人目が松坂健さんであるということは、亡くなられる前にご本人から伺ったが……

 このように、1984年から1986年の約三年間、瀬戸川は文藝春秋の媒体で多くの仕事をしているが、これ以降の寄稿は散発的なものになる。そのうち興味深いものとしては、〈文藝春秋〉の1991年8月号に掲載された「終刊宣言」がある。これは〈BOOKMAN〉はもうこれでお終い!と宣言したもの。やるだけのことはもうやったので、これ以上は続けませんという内容なのだが、これがなぜ〈文藝春秋〉に載ったのか良く分からない(本体では1991年6月にきちんと終刊号を出して締め括っているのだから)。書店からの問い合わせが多かったのか、あるいは〈文藝春秋〉の編集者が瀬戸川のある種の潔さを面白がって書かせたのか。今となっては真意は闇の中である。

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