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「半自伝的エッセイ(23)」千秋さんのセキセイインコ

Tさんがタイトル挑戦に残念ながら失敗してからしばらく経ってのことだったから秋口の頃だったと思う。チェス喫茶「R」の常連の一人であった千秋さんから思わぬお願いをされた。

「ねえ、藤井君、一生のお願いだと思って、わたしのお願いを聞いてくれない?」
千秋さんはその当時の呼び方でOLだった。どこに勤めているか知らなかったが、まだ若いのに大きな会社でそれなりの仕事を任されている雰囲気があった。だから、しばらく海外に出張すると聞かされても驚かなかった。しかし、千秋さんのお願いは私を少々困惑させた。
「インコを預かってほしいの」
「インコですか?」
「そうなの。寂しがりやなの」
「僕も留守がちですが」
「たぶんね、藤井君と相性がいいと思うの」
「インコに相性があるんですか?」
「それはそうよ」
私は子供の頃、実家で犬と猫とニワトリは飼ったことがあったが、インコはなかった。
「大丈夫よ。インコって犬と猫とニワトリを合わせたみたいな存在だから」
「本当ですか?」
「請け合うわ」
そんなやりとりがあって私は千秋さんのセキセイインコを預かることになった。預かることにしたのには少なからぬ下心のようなものがあったのは確かである。それというのも、千秋さんは私とは五歳ぐらいしか歳は離れていなかったと思うが、とびきりの美女だったのである。しかも三カ国語ぐらいを自在に操るらしく、加えてチェスの腕前は相当なものだった。どうしたらこんな才色兼備の人間が出来上がるのかと誰もが憧れていた存在だった。私などは目を合わせるだけで動悸がした。そんな千秋さんが可愛がっているインコを預かりたくないと思う男がこの世にいるだろうか?

そのようなわけで私はアパートの自室で千秋さんのインコと同居することになった。フェルメールの青のような綺麗な色が羽の全体を覆っていて、一目見て美しい鳥だと思った。初日、私を警戒しているのか、あるいは単に環境が変わったせいなのか、インコはうんともすんとも鳴かなかった。ずっとケージの端の止まり木に身を寄せ、餌を食べる時だけ動いた。千秋さんが置いていったメモに書かれていたように、朝夕に餌と水を換え、新鮮な葉っぱを与え、様子を見ること三日、ようやくインコは何か囀るようになった。ケージから出すと(これも毎日の日課として遊ばせるようにメモに指示があった)、私の指に止まるようにもなってくれた。すると、「おはよう」「ただいま」「ちーちゃん」などといくつかの単語を話すようになってきた。ここまで慣れてくれたかと嬉しくなった。と同時に私の頭にはある計画が浮かんだ。千秋さんにインコを返す前に何か言葉を教えることはできないか?

さっそく私は書店に行き、『インコの飼い方』のような本を数冊立ち読みした。その中の一冊によれば、言葉を憶えさせるのであれば元気な午前中がベストと書かれていた。私は翌日からそれを実践した。インコをケージから出し、指に乗せ、向き合う格好で、ある言葉を何度も何度も根気よく繰り返した。そう、読んだ本には根気が必要だと書かれていたのだった。それに、楽しい雰囲気の中で言葉を教えると憶えが速いとも書いてあったから、私はできるだけ笑顔で、ある言葉を教えた。しかし、根気と笑顔の甲斐なく、インコがその言葉を憶える前に千秋さんは日本に帰ってきてしまった。

インコを返してからしばらくしてチェス喫茶「R」に千秋さんが顔を見せた。帰り際、千秋さんは小さな紙を私にそっと手渡した。そこには、「インコを預かってくれたお礼がしたいので明日午後六時に来てください」と流麗な文字で書かれており、その下に住所が記されていた。むろん、私はその小さなメモに書かれていた住所に行った。そこは千秋さんのマンションで、リビングに通されるとすでにテーブルの上には色とりどりの料理が並んでいた。
「そーちゃん、いい子にしてた?」と、食事が始まってしばらくして千秋さんが言った。「そーちゃん」というのはインコの名前だった。
「三日ぐらいしたら少しずつ慣れてくれました」
「そう、よかった」
その日、千秋さんは細身のジーンズに白いTシャツという姿だった。それまではスーツかそれに準じるような洋服を着ているのしか見たことがなかったので、なんというべきか、あらためて眩しかった。
「そうれはそうと、なんであんな言葉、憶えさせたの?」
「えっ? 憶えてましたか?」
「朝、陽が差し込むぐらいの時間になると、『メイト』『メイト』って言うんだけど」
笑顔で根気よく言葉を教えたのは無駄ではなかった。

食事を終えて、私と千秋さんはソファに移動した。
千秋さんは私の耳元に口を寄せて、「わたしのことメイトしたいの?」と囁いた。
「手筋は考えてきました」
「どんな手筋?」
「知りたいですか?」
「わたしが知らない手筋?」
「きっと」
「じゃあ、教えて」そう言うと千秋さんは唇を重ねてきた。
というような安っぽい映画のようなシーンはなく、私は食事のお礼を言って千秋さの部屋を後にした。

千秋さんがそれからチェス喫茶「R」に顔を出すことはなかった。もともと忙しい人らしく店に来るのは月に一回か二回ぐらいだったからあまり気にしてはいなかった。しかし、なんとなく待ち侘びていたのが私の正直な気持ちだった。千秋さんのマンションに行ってから二ヶ月後ぐらいだった。私がアパートに帰ると、部屋のドアの前に鳥籠が置かれていた。その鳥籠には見覚えがあった。籠の横にはトートバックのようなものが置かれていた。

私は、そーちゃんがいる鳥籠とバックを拾い上げ、部屋に入った。バッグの中には数種類のたっぷりの餌とメモが入っていた。
「前任者が急遽帰国することになり、わたしが代わりに赴任しなくてはいけなくなりました。本来であればちゃんとお会いしてお願いしなければいけないところですが、時間がありませんでした。そーちゃんをお願いできるのは藤井君しかいません。申し訳ありませんが、わたしが戻るまでお願いします。半年の予定です」

半年が過ぎたが、千秋さんから電話もなく(そもそも私の部屋に電話はなかった)、葉書や封書もなく、メールもない時代だったから、千秋さんがどこでどうしているのか、まったくわからずに、いつの間にか三年余りが過ぎた。
ある日の夕方、ふと千秋さんの声が聞こえたような気がした。その声は「一生のお願い」と言っているように聞こえた。胸騒ぎのようなものがして私は急いでアパートに戻った。
鳥籠の下の網の上で、そーちゃんが羽を広げうつ伏せになっていた。私はそーちゃんをそっと手のひらに載せた。かなり弱っているのが一目瞭然だった。その日の朝までいつもと変わらず元気だったのに。
私の両手の上で、そーちゃんは苦しい息をしていた。か細く喉が鳴るような音がした。窓の遠くで空が白み始めるまで私は両手にそーちゃんを載せてじっとしていた。そして、そーちゃんは私の手の中で息を引き取った。


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