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「半自伝的エッセイ(22)」アンパンマン

チェス喫茶「R」のマスターは無事退院し、またカウンターの向こうに立てるようになった。しかし、まだ体力に自信がないらしく、私が半分ほど仕事を代わるような格好になっていた。

そんなある日、中年の男性がふらりとやってきて、「チェスを教えていただきたいのですが」とマスターに言った。
「ご経験は?」マスターが尋ねた。
「ルールは知っています。遊びで何度か指したこともあります。ですが、まったくの初心者だと思ってください」
「わかりました。では、あの方と指されるのがいいでしょう」
そう言ってマスターは、端のテーブルに座っていた伊藤さんを指差した。伊藤さんは人にチェスを教えることに関しては右に出る人がいなかった。ほんの数手、手を合わせただけで、教える相手の棋力を見極めてしまい、それに応じた教え方ができてしまうのだった。

さっそく伊藤さんとその男性が盤を挟んで駒を動かし始めた。カウンターの裏でマスターの横に立っていた私にマスターが小声で耳打ちした。
「プロ棋士のTさん」
「えっ?」私は聞き返した。
「あの人、プロ棋士のTさんだよ」やはり小声でマスターは言った。
私はTさんの名前だけは聞いたことがあったが、顔は知らなかったので、これがTさんかと、それと気づかれないようにTさんのほうに視線をやった。ついでに盤面に目をやると、Tさんは序盤ですでに必敗の駒組みをしていた。本当にルールを知っている程度の棋力だったらしかった。たしかTさんは若い時に二度ほどタイトルに挑戦したことがあったが、いずれも退けられていた。私がTさんについて知っているのはそれだけだった。
その日、Tさんは「大変勉強になりました」と深々と頭を下げ、帰っていった。
Tさんが店を出てしばらくして、マスターが伊藤さんに「あの人、プロ棋士のTさんだよ」と私に耳打ちしたのと同じ情報を教えた。
「ああ、どうりで」と伊藤さんは言った。
「どういうこと?」マスターが尋ねた。
「いや、ここは受けないと危ないからと指摘するじゃないですか。そう教えると普通は同じような局面になったら、そこで受けるじゃないですか。やらないんですよ。その代わりに、受けないでも自分が有利になりそうな筋を作ってくるんです」

それからTさんは週に2、3回、店に顔を出すようになった。伊藤さんがいるとは限らないので、私が対局することもしばしばあった。将棋の世界では中堅とも、もしかしたらベテランとも言われる世代に属するTさんだったが、奢るような態度は一切なく、常にチェスを教わるという態度で、実に腰の低い人だった。実際の年齢より老成している雰囲気があった。そんなTさんに好感を抱いた私は、知っている知識をすべてTさんに教えた。Tさんは「ああ、なるほど」「そうですか」などと相槌を入れながら、新しい手筋や急所の局面を知ると楽しそうに頷いていた。

そんなTさんと盤を挟むのがいつしか私の愉しみになっていた。ところが、ある日を境にTさんが来ることがなくなった。私はマスターに聞いてみた。
「Tさん、最近来ないですね」
マスターはカウンターから出ていき、店内に設置してある本棚から雑誌を一冊持って戻ってきた。マスターはパラパラとページをめくると、私のほうに雑誌を差し出した。そこには、Tさんがあるタイトル戦の挑戦者になったという記事が掲載されていた。記事のタイトルは「若手王者かそれともベテランか!」というものだった。日程を見ると、明後日に第一局が始まる。自分の息子のような年齢のタイトルホルダーにTさんが勝つのは難しいのではないかというのが、将棋に詳しくない私の率直な予想だった。雑誌の記事もそのような見立てになっていた。

実際にそのとおり、Tさんは第一局、第二局と連続して落とした。三局目をなんとか逆転でものにし、四局目で負けて追い込まれた。五局目をなんとか取ったが、そこで力尽きてしまった。

タイトル戦が終わって二週間後ぐらいだったと思う、Tさんがふらりとやってきた。
「思いのこもった対局を見せてもらいました」とマスターが言った。
「私のこと、ご存じだったんですか?」
「ええ」
「そうでしたか。それなら話が早い。今日はお礼を言いたくてきました」
「お礼?」
「ええ、そうです」そう言ってTさんが話し始めた。
「久しぶりのタイトル戦で、やっぱり自分を変えないといけないと思いまして、それでチェスを教えてもらいたいと思ったんです。この歳になるともう頭が固いんですよね。なにかこう、新しいもので自分を刺激したくて」
「チェスは役立ちましたか?」
「最終局のことですが、なんて言いましたっけ、アンパンマンみたいなルール?」
「アンパッサンですか?」
「そうそう、そのアンなんとか。私はその言葉が思い出せなくて、ずっと対局中にアンパンマン、アンパンマンって頭の中で呟いていたんです。終盤、相手が4四歩と突いてきたら、それを桂馬と角で消せる筋を仕込んでいたんです。そうなると十九手詰めだったんです。でも4四歩とはしてくれませんでした」
「そうでしたか」
「チェスを教えていただかなかったら、私の古い頭ではあの詰み筋は思いつかなかったと思います。もしかしたら、と思えるところまではなんとか戦うことができました」そう言ってTさんは頭を下げた。
Tさんがぜひお礼をしたいというので、店を早仕舞いしてTさん行きつけの寿司屋にその時店にいた十人あまりタクシーに分乗して行った。ひとしきり飲んで食べてからTさんが言った言葉を今でも憶えている。
「私ら棋士からすると、チェスはいきなり終盤戦みたいなので、緊張します。それが私にとっていい刺激になりました。その緊張感を忘れなければまだやっていけそうです」

(文中の名前などは全て仮名です)


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