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6月はプーシキンの詩⑨

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出発だ、私は準備ができた;あなた方はどこへ、友たちよ、
どこへでも思いついたところへ、あなた方のあとを追って私は
どこへでもついて行くつもりだ、不遜な態度で走り去るように:
はるかなる中国の長い壁のもとへでも、
にぎやかなパリへでも、ついにはこんなところへも、
すでに夜の漕ぎ手がタッソの詩を歌ってはいないところ、
古代都市の灰の下で聖骸が眠っているところ、
糸杉の林がかぐわしい匂いをはなっているところ、
どこへでも 私は準備ができた。出発だ…だが、友よ、
おしえてほしい:さすらいの旅の最中に私の情熱は消えてなくなるだろうか?
気高く、悩んでいる乙女のことを忘れられるだろうか、
それとも 彼女の足元へひざまずき、彼女のうら若き怒りに、
当然の報いとして、愛を 私はもたらすことができるだろうか?
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                           (1829)


注:プーシキンが1829年4月に結婚を申し込んだ、ナターリヤ・ニコラエヴナ・ゴンチャロヴァへの想いに関連している。ところがプーシキンは、彼女の母親からはっきりしない返事しかもらえなかった。ナターリヤ・ニコラエヴナはエルズルム(現トルコ)の小旅行から帰った詩人と会ったが、非常に冷たかった。プーシキンは最初の刊行物に、詩集《哀歌断片集》と名付けた。最後の詩行のあとに続くーーーの行は、この詩が実際には断片であったことを前提とさせるものである。この哀歌の初稿(我々に残されている唯一の手稿)には、出版されたテキストの後に続いて、この一行だけあった:

しかしもうたくさんだ、私は愛の枷を引き裂く…

詩の中で言及している外国旅行の請願書を携えて、プーシキンは2週間後(1830年1月7日)ベンケンドルフのもとへ向かった。しかしニコライ1世は拒否し、それについて1830年1月17日に、ベンケンドルフは詩人に知らせた。


       ***

Поедем, я готов; куда бы вы, друзья,
Куда б ни вздумали, готов за вами я
Повсюду следовать, надменной убегая:
К подножию ль стены далекого Китая,
В кипящий ли Париж, туда ли наконец,
Где Тасса не поет уже ночной гребец,
Где древних городов под пеплом дремлют мощи,
Где кипарисные благоухают рощи,
Повсюду я готов. Поедем... но, друзья,
Скажите: в странствиях умрет ли страсть моя?
Забуду ль гордую, мучительную деву,
Или к ее ногам, ее младому гневу,
Как дань привычную, любовь я принесу?
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