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冬眠していた春の夢 第14話 ハッチ

 「それは妙だね…」
 仁美は眉間に皺を寄せたようだけど、まったく皺はできていなかった。
 「橋本さんは、もしかしたら元々美月を知っているのかもしれないね。昔は逗子に住んでいたっていうし…」
 でも、ちょっと会ったくらいの3歳児のことなんて覚えているものだろうか?

 「まあ、こうやって考えていても埒あかないから、直接聞いてみるか!」
 「えっ?」
 「だって、仁美ちゃんと遊びに来てねって言ってたんでしょ?」
 「えっ、そうだけど、でも…」
 「どうせ何もやる事ない夏休みなんだしさ。美月、橋本さんいつカフェにいるかLINEで聞いてみなよ」

 橋本さんがバイトをしているカフェは、小町通りの途中から小道をちょっと入ったところにあった。
 古民家風建物のドアを開けると、白い半袖シャツに黒いカフェエプロンの橋本さんが、笑顔で迎えてくれた。
 制服姿が大人過ぎて、私は激しく緊張した。

 「ヤダ!橋本さんカッコイイ!」
 無邪気に言える仁美が羨ましい。
 カウンターに案内されて、クリームソーダが届くまで、記憶が飛んでいた。
 冷たいソーダを一口飲んで、私はようやく我にかえった。
 でも、橋本さんを目の前にして、私はただただ硬直していた。

 「橋本さんって、小学3年生まで逗子にいたんですよね?」
 仁美がさっそくカウンターの中でグラスを磨いている橋本さんに問いかけた。
 「うん、そうだよ」
 「もしかして…その頃、美月のこと知っていました?」
 単刀直入すぎるとは思ったけど、そんな仁美が頼もしかった。
 私はストローをいじりながら、チラッと橋本さんを見上げた。
 橋本さんは、私を見て無言で目を細めた。
 仁美と私は、辛抱強く橋本さんの返事を待った。

 すごくすごく長い沈黙が続いた気がしたけど、多分数十秒くらいだろう。
 橋本さんが口を開いた。
 「子供会の行事でよく会ったよ。カレー大会とか、熊野神社での盆踊りとか縁日とかね。美月ちゃんは金魚柄の浴衣を着ていた」
 「熊野神社!」
 仁美が小さく叫んで私の顔を見た。

 聞きたいこと、言いたいこと、いっぱいあるのに言葉が出てこない。
 私はしばらく金魚のように無言で口をパクパクさせていた。
 すると、他のお客さんに呼ばれて、橋本さんはそっちに行ってしまった。

 「美月、大丈夫?」
 「…う、うん。でも、何を聞いたらいいかわからない」
 「とにかく!今日は2つだけ確認して帰ろう」
 「2つ?」
 「うん」

 そうこうしている内に、橋本さんがカウンターの中に戻ってきた。
 「橋本さん、橋本さんって、下の名前何でしたっけ?」
 「え、智彦」
 「…トモヒコ…」
 ドキドキしていた私達は、初めて聞くその名前に、ちょっとだけ拍子抜けした。
 「えっと、じゃあ、じゃあ、子供の頃のあだ名は?みんなに何て呼ばれてました?」
 仁美が前のめりに聞いた。
 「ハッチ。ハッチって呼ばれてたよ」
 ハッチ!一番背が低いけどイケメンのハッチ!

 私達は驚いて顔を見合わせた。
 夢の扉が、少しだけ現実に向けて開いた。
 仁美はゴクリと唾を飲み込んで、鼻息荒く質問を続けた。
 「じゃ、じゃあ…春馬という男の子と、リョータという男の子を知っていますか?」
 橋本さんは、驚いたように目を見開いた。
 「え?なんで?」
 信じられないとでも言いたげに、私達を交互に見て疑問を投げかけた。
 「なんでって…」
 私達は顔を見合わせて口ごもった。

 しばらくして、仁美がゆっくりと口を開いた。
 「という事は…春馬さんもリョータさんも実在しているって事ですか?」
 橋本さんは、質問の意味を探るように仁美を直視した。

 それから目を閉じてしばらく思案していたけど、それまでの動揺や思案がなかったかのように、ごく自然な笑顔を作って、
 「うん。小学校の同級生だった。でも…オレは転校しちゃったから、その後の2人のことは知らないけどね…」
 と呟くように言って、背中を向けて、磨いたグラスを棚に並べだした。

 第15話に続く。

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