景色を変えろ
先日、岡村隆史さんがラジオで失言をしてしまい、次の週に矢部浩之さんが公開説教と言う形で岡村さんを諭してしました
(岡村さんの女性軽視な発言が問題となった)
その際にとてもよい言葉を仰っていたのでご紹介させて頂きます。
「景色を変えろ」
本当にそれに尽きるな、と思います。
岡村さんの女性軽視の発言はコンプレックスから来るものだと矢部さんが仰っていましたが、とても的確でした。
きっととても傷つけられたのでしょう。自分の尊厳を守るために、攻撃をする。
そうやって自分を守っていたのでしょう。
そう言う事、恐らく誰にでも言える部分はあると思います。
コンプレックスに思っている事に対して厳しい態度を取りがちです。
それがいつしか価値観が固定してしまう原因になる。
全ては、傷つけられた事に対して避けるあまり、自分だけの世界を構築してしまって拗らせてしまう事が原因。
(恐らくコンプレックスになってしまうくらいなので、本来は大好きでとても大切に思っていた事なのだろうと思います)
例えば虐めと言う理不尽な出来事が不安の要因になってしまって、
いつの間にか一般化してしまう、特定の一人の人間に対してだった感情がいつしか女性(男性)に、いつしか人間に。
例えば暴力的な父親と言う理不尽な出来事が不安の要因になって
いつの間にか拡大していく、家族に対し、男性に対し、全ての父親と言う存在に対する恐怖と敵対心に。
これを克服するのは容易では無いです。
自分がそうだったように、猜疑心の塊になってしまう。
一人の世界を構築してしまう。
だからこそ、人を招く。
心に。
人と繋がると言う実感を持てるまで。
その実感を持てるようになったのは夫のお陰なのですが、他人と暮らすことで意識が変わっていった私の例を紹介しておきますね。
(結婚を勧めるわけではなく、人を信じるきっかけをどう掴んだかの例として)
夫は私をコントロールしようとしません。自分の事は自分でしますし、相談する事はあっても命令された事などありません。(私も束縛しようとは思わない)
私が喧嘩腰であっても(今思うととても理不尽な怒り方で駄々を捏ねているだけ)応戦しようとせず、戸惑った顔はしますが、過度に心配する様子はない。
父親と罵り合いをしてきた私は肩透かしです。
(やはり意見の通し方のモデルとして両親の罵り合いを見ていると、どうしたら良いのか分からず不安から力が入りどうしても同じような意見の通し方をしてしまう人はいると思います、即ちDVになるのですが)
最初は戸惑いました。人間関係が希薄だった私は父親が男性としてのモデルだったので、こんなにも自由にしてくれる人間がいるのか!と戸惑いました。
同時に自分の怒りが相手にとってはとても理不尽なものだろうと、試し行動なのだろうと自分でも薄々気付いていたので、敵わないなと思うと拗らせたモヤモヤからくる怒りは収まっていきました。
その怒りが薄れてきた頃に、
結局は父親に命令されたり怒鳴られたり、行動すれば嘲笑われたり、それを恐れて何も出来ずイライラしていたのだと夫との生活で気づく事ができました。
夫は自分のやりたいことを優先しているようで、しっかりこちらも見ている。
言葉は非力だなぁと感じたものです。
行動を見ているだけで、何倍も効果がある。
きっと、こう言った「見守り」が私には足りなかったんだろうなと思います。
「見守り」ではなく「放置」でしたからね。安らぎはなかったですからね。
見守られるって、信頼されていないと出来ないことなので、この人のためにも下手な事は出来ないな、と責任感が出てきます。
放置されると、心配してよ!って甘えの心がずっと残るんだなと、改めて幼少期の過ごし方って重要だなって思いました。
今までの無責任すぎる生活が恥ずかしい限り。
結局、自分の弱い部分をさらけ出すと言うのは効果があります。
拗らせている部分を曝け出してしまう。殻を破るって表現がされますね。
私の場合は自ら曝け出す努力をしなくても、勝手に曝け出している感じでしたが
それを受け止めてもらっていると気付くこと。
相手はどう考えているのか思いを馳せること。
ぶつける怒りは誰に向けたものなのか考えること(大抵は不甲斐ない自分)
拗らせ続けているコンプレックスは、人によってはどうでも良いことだと知ること。
恥ずかしいと思っている事は、別に隠そうとしなくても明らかにしようとしなくても良い事。人にとってはどうでも良い。
寄り添ってほしい想いは膨らみますが、
その想いを受け止めさせるためだけに相手を利用していないか。
寄り添ってくれている人の事を考える事は出来るか。
相手が違えば、DVをされていても、していてもおかしくないと思います。
私が思うにDVをする人もされる人も、「不安」が大きい人なんじゃないのかな?と思います。
そして批判される事で、安心する。ダメな自分にダメだと言葉なり行動なりで示してくれる存在に依存してしまう。
本当は人って批判されるために生きているわけじゃないのだけれど。
本来は人は平等なのに。
誰かを信じるって自分の心の力が必要です。信じたり疑ったりで疲れます。
疑って遠ざけていた方が断然楽です。
でも信じる事が出来れば、疑ったりの部分がなくなるので、とても安らかですよ。
同時に自分の事も信じられるようになって来ます。それは信じられているという安心感からでもありますし、しっかりしないとと責任感が出るので人として成長する実感があることも要因だと思います。
夫とは気が合うなーという感覚ですが、このような心の変化があり
景色が変わっていくのを感じています。
敵だらけで暗く閉じこもっていた世界から連れ出してもらい
私も世界の一員になれた感覚です。
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