ここに居て良いよ。

全く安心感の無い環境で「私は何故ここにいるのだろうか?」という不安が渦巻いていて、「ここでは無い何処かに行きたい」願望も強かった。

とにかく居心地の悪い家に居たくなかった。


その癖が抜けきらないのか未だに、

「私はここに居てもいいんだろうか・・・?」と

自分が酷く場違いな存在なのでは?と思ってしまう。


掘り下げて考えてみると、何も居場所に限ったことじゃなく

何をするにしても「良いですか?大丈夫ですか?」と恐々と承認を求めている自分がいることに気づいた。

その承認をコミュニケーションで解消出来ればいいのだけれど、コミュニケーションも下手なので強引にやってしまい結果迷惑をかけて自己嫌悪に陥ったりする。面倒な展開が多々。


ずっとずっと上手くいかないなぁと悩んできたのですが

あぁー!!これが顔色を伺うと言うことか!と気付いて、びっくり。

恐らく人とは違うレベルで承認を求めている。

自分にとっては当たり前のことすぎて気付かなかった生きる上で身に付いてしまった癖。

これをずっとやってきた。30年以上。

そりゃ他人と時間を共にするのが息苦しいわけだ。

特に怒りが全面に出やすい人とは疲れてしまうわけだ。

(自分も不安が募りやすく、それを怒りに変換してしまうため、周りも怒りを持ちやすくなってしまう悪循環もあると思う)


やっとで

今までの私は、“相互コミュニケーション”と言うよりも

“顔色を伺う”という「自分の不安」を相手にぶつける行為をしていたんだなって気付くわけです。コミュニケーションもへったくれもあったもんじゃない。

(不安をぶつけているわけですから、それが解消されないと余計に不安になりイライラする。謙遜してるつもりが、いつの間にか怒りに変わる)


そりゃ避けられて当然だ!

今までみんなごめん!と。


これは誰しもが抱えているような気持ちなのかもしれないし、

全然抱えていない人もいるだろうし、人それぞれの感覚なのだけれども。


そんなずっとずっと存在に対する不安感を持っていた私が今思うのは、

「誰かに認めてもらえないと存在しちゃいけない人間なんて居ない」

と言うこと。

「自分が自分を認めているから存在していられる」

んだと。

そうやって認めている自分のパーソナリティーが「個性」なんだと。

その「個性」は多種多様であって良いのだと。

性別や容姿や職業や地位じゃない、その人の生きてきた時間の上での個性。

私のしっちゃかめっちゃかの人生だって「個性」ではあるだろう。それが好まれるかどうかは別として。


あまりにも自分が異質だと思い過ぎて、謙り過ぎていると

卑屈で不安定なコミュニケーションばかりになってしまう。

「私はここに居て良いし、自分の個性を大事にしていい」


あまりにもシステム化された社会で道に沿うように生きることを強いられているけど、自分の存在は自分で認めてあげよう。


もう他者を認めるとかそう言うレベルの話、無くなればいいのにね。当たり前なのに。

他者を認めるとか、他者から認められるとか、外に評価を預けるからおかしなことになっちゃうと思うんだ。

差別とかも簡単に無くせると思う。本当は。


「みんな違ってみんな良い」と言う言葉、他者に言うことは出来ても、自分は異質だから「私は良くない」と否定していた私。

「私も違っていて良い」とやっとで思える気がします。

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