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【SSW26:STORY】『生きる』『感謝』『笑顔』を届ける歌い手・ちょねさゆ

シンガーソングライター×ライバーとして幅広く活躍する、ちょねさゆ。2016年から路上ライブを始め、神宮外苑花火大会や地上波テレビへの出演、渋谷ヒカリエおうえんフェス二冠などアーティストとして実績を積み重ねると同時に、東日本大震災の被災地などでのボランティア活動も行ってきた。「一人でも多くの人を笑顔にしたい」と語る彼女のバックボーンに迫った。


挑戦しないまま、諦めたくなかった

千葉県柏市出身のちょねさゆは、スポーツ一家の長女として生まれた。

「父は体育の先生で、母はテニス、兄は卓球と水泳をしていました。私だけ、何故か音楽を好きになって、おもちゃのピアノで遊んだりしていました」。

紅白歌合戦やミュージックステーションなどのテレビ番組を見て、「大人になったら歌手になりたい」と夢を抱いた。

「でも、親には『芸能人なんて絶対無理だ』って言われちゃって。自分も幼かったし、『そっか』と思ってしまいました」。

歌手を諦める代わりのように、クラシックピアノを習いたいという思いが芽生えた。「すぐには習わせてもらえなくて、やっと始められたのは小学校2年生のときでした」。

念願のピアノを習い始めると、性格も変わった。

「それまでは恥ずかしがり屋で、引っ込み思案な子どもでした。でも、自分より早くピアノを始めた子に負けたくなくて、コンテストに出たり、合唱の授業で伴奏者に立候補したりするうち、人前に立つことが苦ではなくなりました」。

中学校では、吹奏楽部でフルートを担当。生徒会の役職も務めた。高校では、合唱部とボランティア部と家庭科部に所属。さらに、文化祭のプロジェクトリーダーなど、全校生徒をまとめる立場も経験した。

「私が通っていた東葛飾高校は自由な校風で、自主的に色んな活動をさせてもらいました。高校生活を通して、『やりたいことをやり遂げたい』と考えるようになりました」。

教師をしている父親の影響もあり、高校卒業後は、川崎市の音楽大学の教育学部へ進んだ。しかし、いざ大学生になってみると、自分の選択に違和感を覚えた。

「小学校の先生を目指していたのですが、大学が合わなかったのもあるし、『自分が本当になりたかったものはこれなのかな?』って思ったんです」。

かつて蓋をしたはずの「歌手になりたい」という夢が蘇った。

「やらないで諦めるのは違うな、と。歌手に挑戦しよう、と決めました」。

こうして、2016年5月から、路上で歌い始めた。

「歌手になるために、どうすればいいかわからなかったので、とりあえず路上ライブをしてみたんです。『ちょねさゆ』というアーティスト名は、天から降りてきました」と笑う。。

がむしゃらにチャンスを追い求めて

活動開始当初は、カラオケ音源を使用し、様々な楽曲をカバーしていた。

「『一休さん』や『ドラえもんのうた』、キテレツ大百科の『はじめてのチュウ』など、子ども向けのアニメの主題歌や、ちょっと面白くて可愛い曲を歌っていました。お客さんの反応がよかったし、私の声に合うと言ってもらえていたので。あとは、シンガーソングライターのmiwaさんが好きだったので、よくカバーしていました」。

路上ライブの回数を重ねていくと、ライブハウスから出演の誘いが来るようになった。

「どんどんライブの本数が増えました。多いときは、フリーライブなども含めて、月に15本くらいライブするようになりました」。

忙しい合間を縫って、音大の先輩に作詞作曲を教わり、オリジナル楽曲を制作。17年3月に発表した楽曲『忘れない』をきっかけに、ピアノ弾き語りを披露することが増えた。同年12月12日には、北参道GRAPESにて初のワンマンライブを開催し、完売御礼となる。

また、ライブ配信アプリ・Mixchannelの公式ライバーとして活躍。数々のコンテストでグランプリを獲得した。その特典の一つとして、神宮外苑花火大会2018に出演し、AquaTimezやCHEMISTRYがメインアクトを務めた軟式球場のステージで、代表曲の『走れ!』を歌唱した。

「ファンの皆さんの応援のおかげで、貴重な経験ができました。すっごく大きい会場で、何万人と観客がいて。ほとんどの人が私のことを知らなかったはずだけど、手拍子をしてくれました。いつか、このくらいの会場を自分のファンでいっぱいにして歌ってみたい、という夢ができました」。

18年10月13日には、赤坂グラフィティにて2度目のワンマンライブを開催。100名集客するという目標を達成した。さらに12月、地上波テレビデビューを果たす。

19年5月26日には、渋谷ヒカリエで行われた『おうえんフェス』に参加。『ウーマンドリームアワード』と『令和女子パフォーマンスグランプリ』の二つのコンテストにて、グランプリを獲得した。

「起業家の方など、様々な分野で活躍されている方が参加されている中で、私は、被災地でボランティアしたことについて発表しました。本当にたくさんの方が聞いてくださって、講演の方法を一から勉強した甲斐がありました」。

19年8月にいったん音楽活動休止したが、半年後の20年3月11日に復帰。沖縄県の石垣島でサバイバル生活をしながら、ライバーとして活動を再開した。

何故、石垣島だったのだろうか。

「もともと、暖かい場所や、太陽が大好きなんです。初めて沖縄に行ったのは高校2年生の修学旅行で、大人になって初めて友達と飛行機に乗って旅行したのも、沖縄でした。だから、19年の夏に『誰もやっていないようなことがしたい。知り合いがひとりもいない土地で生活しよう』と考えたとき、自然と沖縄が候補に上がったんです。日本の最南端でサバイバルって、面白そうだなって」。

折しもコロナ禍で巣ごもり需要が高まるなか、YouTubeやアプリを通じて毎日のように配信を行った。

「ファンの皆さんには、直接ライブで会えなくて寂しい思いをさせてしまい
ました。でも、石垣島で三線と出会って、弾き語りができるようになって、新しい曲も作れたり、良い経験になりました」。

20年7月26日には帰京し、銀座ミーヤカフェで復活ワンマンライブを開催。再び東京を拠点にライブや配信活動をするようになった。

翌年には福岡のF-POP歌謡祭にグランプリとして出場。イチナナ公式配信のカラオケグランプリで準優勝するなど、さらに実績を積み重ねた。

「メジャーデビューするために、できることは全部やろうと思って、がむしゃらにやってきました。最近は体のことも考えて、スケジュールを調整したり、睡眠時間を確保したりしていますが、心がけは変わらず、常にチャンスを追い求めています」。

国内外でのボランティア活動

ちょねさゆを語るうえで欠かせないのが、ボランティア活動だ。

「特にきっかけとかはなく、自然とボランティアに興味を持っていました。父や母がよく『世のため人のため』と言っていたので、影響を受けたかもしれません。そういえば、子どものころから、いじめられっ子に寄り添ったりしていました」。

大きな転機となったのは、2011年3月11日に発生した東日本大震災だ。

実家のある千葉県で自らも被災し、さらにテレビで東北の被災地の映像を見て、恐ろしさに震えた。彼女はまだ中学生だった。

「ボランティアが足りないと聞いて、私も参加したいと思いました。でも親に『中学生では難しい』と反対されて、何もできませんでした」。

いつか自分の力でボランティアをしに行こう、と決意した。

高校生になると、ボランティア部に所属。「部活動の一環として、児童施設で勉強を教えたり、遊び相手になったりしていました」。

初めて東日本大震災の被災地へボランティアに行ったのは、2016年12月のことだ。

「シンガーソングライターとして活動を始めたのと同じ年でした。歌だけじゃなくてボランティアも、『やりたいことはやらなきゃ』と思ったんです」。

音楽活動などでお金を貯めて、現地への行き方も自分で調べた。宮城県気仙沼市の仮設住宅を巡り、孤立した高齢者の話し相手になった。

「何度か通ううちに、現地のおばあちゃんと親しくなって、震災で亡くしたご家族のお話を聞かせてもらいました。そのときに感じたことから生まれたのが、『忘れない』という楽曲です」。

東日本大震災の被災地である宮城、福島、岩手のほか、16年熊本地震の南阿蘇町、17年の九州豪雨の福岡県朝倉市、18年の西日本豪雨の広島市。さらに19年の豪雨で被災した佐賀県嬉野市、20年の豪雨で球磨川が氾濫した熊本県人吉市など、ちょねさゆがボランティアとして足を運んだ範囲は、全国に及ぶ。

22年12月から100日間の海外旅を敢行した際には、国際ボランティアも経験した。

「もともと、海外でのお仕事のオファーをいただいていたのですが、コロナなどの事情でなくなってしまったんです。スケジュールが空いたので、せっかくだし、自分で世界を回ってみようと思いました。予算と相談しつつ、なかなか行きづらいアフリカ、語学の勉強ができるフィリピン、そして長年の夢だった国際ボランティアをするために、タイへ行きました」。

タイには、これまで見たことのない世界が広がっていた。

「私も皆さんも、色んな悩みがあるだろうけど、それ以前の問題があるんです。たとえば生まれたときにちゃんと届け出されていなくて、国籍がない子たちがいます。人として認められていないという心の傷があったり、学校に行けなかったり、就職できなかったり、国外へ出られなかったり。自分がちっぽけに感じました」。

自分一人の力では変えられない、あまりにも苦しい現実がある。それでも、一生懸命生きている子どもたちの存在に、元気をもらった部分もあった。

「日本がどれだけ恵まれているか身に染みましたし、日本人として生まれてこれてありがたいと感じました。私は歌手なので、こんな世界があると知ったことを自分の歌や活動に反映していきたいし、それによって誰かの役に立てたら嬉しいです」。

一人でも多くの人を笑顔にしたい

現在は、路上やフリーライブを中心に活動している。

「金曜日と土日は、必ず歌うと決めています。最近は配信の頻度を減らしたり、バドミントンで体づくりをしたり、自分の健康にも気を遣っていますが、寝ても覚めても音楽活動について考えています」。

23年8月12日には銀座Miiya Cafeでバースデーワンマンライブを開催。翌13日には秋葉原Club Goodmanで、ゲストアーティストを招いての『ちょねさゆ生誕祭』を予定している。

「毎年、自分の誕生日にライブをしています。ワンマン自体は、レコ発とか周年とか、一年に何回か行なっていますが、バースデーが一番大きいですね。自分自身の原点に立って、歌を届けたいというか。私が生まれた日が、私の存在証明になって、みんなが笑顔になれる空間になったらいいな、って気持ちで企画しています」。

長年のファンはもちろん、最近彼女を知った人でも楽しめる一日になること請け合いだ。

今後の目標を訊ねると「YouTubeのチャンネル登録者数を1万人、TikTokのフォロワー数を10万人に増やしたいです」という答えが返ってきた。

「コロナ禍でライブやイベントの開催に制限がかかったことで、音楽シーンが変わって、デビューの仕方も変わってきたと感じています。そんななかで、やっぱり、武器になる数字がほしいんです。今一番頑張りたいのが、YouTubeとTikTokです」。

媒体の特性が違うなか、両軸で進めるのは難しいが、やりがいも感じている。「どっちも頑張って、その数字を足掛かりにして、できることを増やせたらいいな」。

5年後、10年後は、どうなっていたいですか?と聞いてみた。

「メジャーデビューして、Mステや紅白などのメディアに出て、影響力のある人間になりたいです。被災地でフェスを開いて、活気づかせるお手伝いができたらいいな。いつか、会社も作りたいですね。継続的にボランティアができるような」。

過去には、ボランティア活動にのめりこみ過ぎて、生活費が底をついた時期がある。

「お世話になっている方に『まずは自分の生活を持て』と言われてしまいました。経済面だけではなく、体調も崩し、がむしゃらにやっているだけじゃダメだなと反省しました」。

自分の生活を見つめ直すと、身の回りにも、助けを求めている人々がいた。

「『震災で家が壊れて大変だ』というような、命に直結するような悩みでなくても、みんなそれぞれに苦しんでいるんだと、改めて気づきました。それからは、私の周りの人や、一緒に時間を過ごしている人が、できるだけ笑顔でいられたらいいな、と思っています」。

歌い手として、ライブでそれを作りたいと考えている。

「路上ライブでも、小さなライブハウスでも、ワンマンでも。いつも、『ここにいる人が少しでも元気になって帰ってくれたらいいな』と思いながら、歌っています」。

目の前の人を笑顔にしようとする彼女の取り組みが、少しずつ積み重なり、より大きな幸せに結びつくことを願う。

text:momiji 

Information

オンラインストアにて各種CD、グッズ等販売中!

各サブスクリプションサービスにて音源配信中

2023.8.12(Sat) open 17:30 / start 18:00
ちょねさゆ Birthday one man live

[会場]銀座Miiya Cafe(東京都中央区銀座6-3-16 泰明ビル 4F)
[料金]普通3500円 /指定6000円 / 学割2500円 (1D別)
[出演]ちょねさゆ support Pf.西寿菜  Vn.ぱなえ

2023.8.13(Sun) open 17:30 / start 18:15
ちょねさゆ生誕祭

[会場]秋葉原Club Goodman(東京都千代田区神田佐久間河岸55 B1)
[料金]普通3500円 /指定6000円 / 学割2500円 (1D別)
[出演]ちょねさゆ / 平野里沙 / 澪 / 加藤梨菜
support Pf.西寿菜  Gt.真庭レイモン Dr. しらたま Ba. 武田直之

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