「悔しい」がなくなったら、「頑張った」という証拠。

ふと、体育館でバスケをしていたことを思い出す。そして同時に涙がこぼれてくる。それくらいあの頃はバスケに全てを注いでいたのかもしれない。

楽しかった思い出よりも、泣いた日ばかりを思い出す。今思えば、あんなことで泣くなよと思うが、そう思いながら今も若干涙目である。何に苦しんでいたかなんてわからない。ただ、「試合に出たかった」という、純粋で、自分勝手な欲望だけである。

就活の面接で部活を辞めたことをよくネタにするが、話しているうちに記憶が鮮明になってきて涙目になることも少なくない。私は、あの2年間を思い出したくないのだろうか。

楽しかったことと言えば、1年生の夏大会や秋大会で出場したこと。あれほど伸び伸びできていたのは、最初で最後だったが。自分がチームに貢献しているという実感と主人公になっているような感覚。何度試合のビデオを見返したことだろう。辛いときもそのビデオで自分を元気づけていた。

辞めたことは後悔していない(むしろ辞めてから視野が広がり新しい発見ばかり)が、思い出すことを拒む自分がいる。そして、遠い昔のように感じる。

試合に出れないくらいで諦めるなよ、辞めたら就活に影響するぞ、もう少し頑張れば試合にでれるよ、他人の目は気にするな、がむしゃらにやれ。そんな言葉は聞き飽きた。一つも自分の心には響かなかった。

それは、十分に承知している言葉だったから。何度も自問自答していた。

きっと成果を自分が納得できる形で評価されないと我慢できないのだと思う。「試合にでる」というのは、私からしたら他人からの立派な評価であった。自分を見ていてくれたのだ、という評価。期待している、という評価。頑張っている、という評価。

これら全てが否定されていたように感じたのだ。自分の方がこの場面でできるのに、なんでこの人なんだろうと、納得がいかなかった。

試合終了後、みんなが慰めの言葉をかけてくれるのも苦痛であった。「みんなも同じように思うのか」と自分を正当化させようとする自分がいたから。

結論、目立った特徴がないから、だと思う。3ポイントシュートが入るわけでもない、スピードがものすごくあるわけでもない、ディフェンスが超うまいわけでもない。全て劣らず、かと言って優れず、そこそこにこなしていた。

一つ自信があったことは、周りをみるセンス。自分で言うのもだが、流れを読んだり、ノーマークの人を見つけパスをする視野は、他より長けていたと思う。この能力を発揮しているときが一番楽しかったのは間違いない。

ただ、それを発揮できていなかったのか、その能力は重宝されていなかったのか。

試合に出れなくて「悔しい」という感情は段々薄れていった。もうこれで十分だと思ったから。現段階で自分にできることはやりきったと思えていた。この言葉を聞くだけでは、そんなので満足してたらダメだと思うかもしれない。それでも、やり切ったと言えていた。決して、何か数字を残すことがやり切った成果ではない。自分自信に「やり切った」と言えるのなら、それでいいと思う。

他人に迷惑をかけるな、というが、他人に迷惑をかけないで生きている人はどれくらいいるのだろうか。それこそ自分の感情を無視している(あのころの私になる)。

今は、1日を犠牲にするまで取り組んでいることはない。そこに物足りなさを感じることもある。しかし、1つのことに取り組んでいた力を分散させている感覚に満足している。

あの経験があったからこそ、やりたいことが見つかった。2年間がなければ、今みたいに様々なことに取り組んではいない。忙しそうとか、もっと大学生ぽいことしたら、と言われるが、好き好んでやっているわけでなので、誰に何を言われようと気にしない(時々、心が折れるけど)。

とにかく、なんで今これをしているのか、「楽しいのか」を自問自答しながら何事とにも全力で臨みたい。今後の進路選択においても「楽しいのか」をベースに考えたい。多少自分勝手でもいい。「もうあんな思いをしたくない」のが本心であるから。

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