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【第13カ国目】ボスニアヘルツェゴビナに入国

クロアチアのドゥブロヴニクから夕方16時発のバスに乗ってボスニアのモスタルに入った。
(ちなみに2022/8/7現在 ボスニアのモスタルや首都サラエボ行きのバスは朝8時と夕方16時の2便があった)

だが、そもそもバスが来たのが17時でオンシーズンなので渋滞もひどく
日曜日だから国境も窓口少なくで
普段なら20時にはモスタル着いているはずが、22時過ぎの到着となった。

ちょっとこの国、つい最近までえげつない悲惨な紛争を43ヶ月間も行っていて、今もその爪痕がガッツリ残っている複雑すぎる・・・・

■概要
現在は、3つの民族が暮らす国
・ムスリム系(ボシュニャク人):イスラム教
・セルビア系(セルビア人):東方正教
・クロアチア系(クロアチア人):カトリック

現在、人口や民族構成について、複雑な事情を持つ国が故に、正式な国勢調査は行われていないが、人口は370万~380万程度で、ボシャニク人54%、セルビア人32.5%、クロアチア人11.5%、その他2%と言われている。

ユーゴ連邦が崩壊していく中、1992年にボスニア独立をめぐって民族間紛争が始まり各地で紛争が起き、NATOの介入で和平合意に至った1995年まで続いた。
死者20万、難民・避難民200万が発生し、民族浄化によるレイプや強制出産などが行われ、第二次世界大戦後のヨーロッパで最悪の紛争となった。

現在はその3つの民族から1人ずつ代表が出て、大統領評議会を作り、この評議会の議長(事実上ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国の元首)を8ヶ月ごとに順番で交代することが決まっているため、公正な状態が保たれている。

■歴史

近世(15世紀後半)において、全域がオスマン帝国支配下に入り、イスラム教の人口比率が高まり現在でもオスマン建築やトルコ文化を残している。

オスマン帝国衰退後、オーストリア=ハンガリー帝国の支配下に置かれ、それに反発したセルビア系がサラエヴォ事件を起こし第一次世界大戦が起きる

第二次世界大戦時は、ナチスドイツの傀儡国家であるクロアチア独立国が大部分を支配。
この時に過激なクロアチア人とセルビア人による民族浄化合戦により虐殺による虐殺が繰り返される。

1946年に、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国が設立され、1953年〜1980年まで大統領を務めたチトーの力により、しばらくは平和が保たれていた。

1980年のチトーの死をキッカケにユーゴスラビア紛争が起き、ボスニアヘルツェゴビナ紛争が起こっていくこととなる。

■ ボスニアヘルツェゴビナ紛争
・1991年にユーゴ連邦からクロアチアが独立宣言をし、クロアチアVSユーゴ連邦の構図でクロアチア紛争が勃発する
・ユーゴ連邦解体の流れに乗って、ボスニア内のムスリム系とクロアチア系独立を模索するも、セルビア系はユーゴ連邦からの独立に反対
・セルビア系民族を無視され1992年に独立の賛否を問う住民投票を行い90%以上の独立賛成という結果(セルビア系は投票をボイコット)に基づき、ボスニアヘルツェゴビナは独立を宣言し、同年にEC(今で言うEU)が独立承認され国連へ加盟
・それがきっかけで、セルビア系は大規模な軍事行動を起こし、ボスニア北部を中心にスルプスカ共和国の独立を宣言
・この3民族+ユーゴ連邦が各年で構図・勢力を変えながら紛争は激化し、NATOやアメリカが介入する
・クロアチア系は最初イスラム系と手を組むも、途中セルビア系と手を組みイスラム系と仲間割れし、アメリカ介入でまたイスラム系と同盟を結ぶことに=ここでイスラム系とクロアチア系の連邦国家が結成される
・1995年に4ヶ月停戦されるも、停戦期限が切れると紛争再開。同年8月に非戦闘地域に指定されていたサラエヴォ中央市場にセルビア人勢力が砲撃を行い、市民37人が死亡する事件が発生し、これを受けてNATOは大規模空爆を行う
・これにより弱体化したセルビア系は和平交渉への本格的な参加を決定し、10月13日には停戦が実現して戦闘が終結

【和平合意(デイトン合意)】
最終的には、イスラム系・クロアチア系がボスニア・ヘルツェゴビナ連邦となり、
セルビア系がスルプスカ共和国というそれぞれ独立性を持つ国家体制を形成。
この二つが国内で並立する国家連合として外形上は一国となっている

【民族浄化】
紛争中は、自勢力の支配下に住む異民族を排除することで不安要因を取り除き、単一民族にしていくための民族浄化が行われた。
後にジェノサイド(国家あるいは民族・人種集団を計画的に破壊すること)に認定された8,000人以上のイスラム系が殺害される虐殺や、組織的な強姦が繰り返され主にムスリム系の女性達は強制出産を余儀なくされた。

■モスタル
モスタルはボスニア第4の都市であり、ボスニア紛争の際、激戦地となった場所で、今も内戦の影響を引きずっている都市。
ボスニアで一番最初に民族ごとに教育を行う分離学校ができ、今でも違う教科書で別々に授業を行っている、

ボスニア紛争時、元々は、クロアチア系&ムスリム系 VS セルビア系&ユーゴスラビア軍という構図だったが、クロアチア系とムスリム系の関係が悪化し、
街の東側にある旧市街をムスリム系、西側にある新市街をクロアチア系が支配して市内で戦闘が繰り広げられた。

紛争終結後は、クロアチア系とムスリム系がそれぞれお互いの支配地域で住み分けることとなったが、支配権が無かったセルビア系住民は追い出される形となった。

【スタリ・モスト橋】
建設はオスマン帝国10代皇帝スレイマン1世の指示のもと1557年に始まり9年間を費やし完成したという。
ただ、当時どうやってこの橋を完成させたのか、技術上いくつか謎なまま部分も残っているという。
例えば、足場をどう組んだのか?石を向こう岸までどう運んだのか?など。

ボスニア紛争時に橋は破壊され、東西が完全に分断した。
紛争終結後、橋の復旧作業が始まり2004年に開通。
現在は歴史的な価値や平和の象徴として世界遺産に登録されている。

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