卒業文集というタイトル
原稿9日目です。
大雪ムーミン谷の飯能です。
最近の新聞では感染病や病に関する文学の紹介がよくされています。
アルベルト・カミュの「ペスト」もそのうちの一つでした。
アルジェリアのオラン市で、ある朝、医師のリウーは鼠の死体をいくつか発見する。ついで原因不明の熱病者が続出、ペストの発生である。外部と遮断された孤立状態のなかで、必死に「悪」と闘う市民たちの姿を年代記風に淡々と描くことで、人間性を蝕む「不条理」と直面した時に示される人間の諸相や、過ぎ去ったばかりの対ナチス闘争での体験を寓意的に描き込み圧倒的共感を呼んだ長編。
新潮社 https://www.shinchosha.co.jp/book/211403/
大学時代に不条理文学の一つとして読んだ記憶がありますが、当時は「異邦人」の方が印象に強く残っており、「ペスト」はなんとなくのイメージしか残っていません。これを機に少し読み直してみたいと思います。
文学は世相を反映する一つの記憶になり、社会への示唆を与えうるものがありますね。
今回は卒業文集vol.5「アニメ アイドルマスターシンデレラガールズを語る」の制作背景について最終篇でお送りいたします。
①出逢いと衝撃
②プロデューサーになって
▶︎③年月を経て
年月を経て 本のタイトルについて
本日の記事、前半は少しばかり私的なものになります。ご容赦ください。
なぜ「卒業文集」というタイトルなのか、について触れます。
弊サークル「さやえんどう」の共同代表であり、オタク盟友のハヤブサさんとタイトルについてたくさん話し合いました。
当初は「アニメ演出家である山田尚子と高雄統子を語る本」を作りたい、そしてコミケに挑戦してみたい、その一心でした。
もちろん作った後にもやってみたいことはないか、と色々と考えました。
書く本によってタイトルを変えてもいいんじゃないか
というのもアイデアとしてはありましたが、結局は書くことでエゴとしてどうなりたいのかという議論になりました。
議事録はないので正確にはわかりませんが、
「書くことで前に進みたい」
そういった結論になっていったように思います。
なかなか煮詰まるタイトル出しでしたが、ある時ポンと
「卒業文集ってどうだろう」
と出てきました。
H「いやいや、雑誌のタイトルなのにそれはないんじゃ」
T「確かに。でも同人誌って多少はエゴを出していってもいいやつだよね」
H「うーん」
T「あと、卒業って、それまでのことに区切りをつけて前に進んで行くことだよね」
H「確かに」
T「この本は基本的に評論やエッセイ、情報や対談で出来そうだから、文章中心になる」
H「それで、卒業文集か」
他にも紆余曲折ありましたが、タイトルは決まりました。
卒業文集は、これまでに3冊書きました。
書いてみて思います。
やっぱり卒業文集だったな、と。
なぜかというと、それまでに積み重ねてきた想いや行動がそれとなく昇華されていって、書いたあとの生活において、そこに対する気持ちが少しずつ離れていく実感があったからです。
もちろん今でも「アニメ演出」「オフ会」「アイマスやそのコミュニティー」の中に身を置いていますが、当初よりアクティブでなくなったことはきっと周りにいる方も感じていらっしゃるのではないでしょうか。
年月を経て シンデレラガールズについて
さて、アイドルマスターシンデレラガールズのアニメ(以下デレアニ)が2015年に放映を終えて5年が経ちました。
アニメ放映終了後にそのコンセプトをもとにした3rdライブ「シンデレラの舞踏会」を終えて一区切り。
そして次は、アイドルマスターシンデレラガールズ スターライトステージ 通称デレステにおいてアプリゲームの展開がスタートをしていきます。
アニメによって認知度が高まったところで、アイドルたちが手元で歌って踊る無料のアプリケーションが始まりました。またリアルな有名人の起用をしていく広告展開などを経てシンデレラガールズは大きく成長をしていきます。
ここから5年後には、ライブのドーム公演がいつも埋まるようになるものになるとはこの時思いもよりませんでした。
2011年にシンデレラガールズが始まってもうすぐ10年が経とうとしています。
私の主観では、アニメを経たことでアイドルたちに大きな変化が出たと考えています。
それは人によっては望ましくないものであったかもしれません。
そして、アイドルマスターコンテンツ自体の根幹にもこのデレアニは影響を及ぼしたものだと思っています。
その辺りについては今回執筆予定の同人誌、卒業文集vol.5で触れていきたいと思います。
長文のご拝読をいただきまして、ありがとうございました。
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