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わたしの場面緘黙症時代

今回は、わたしの場面緘黙症時代の話です。


よければご覧ください😊



わたしは物心ついた時から、
「場面緘黙症」という症状を抱えていました。

物心ついた時には、すでに家族以外の人と声を出したり、話ができませんでした。


人とのコミュニケーションは、「はい」「いいえ」「わからない」を首を使った動作で行っていました。


人見知りで、家族以外の人との関わりに極度に恐れていたような気がします。



「場面緘黙症」を発症する方は、
脳の扁桃体という部位が過剰に反応し、
「不安になりやすい」「緊張を感じやすい」という気質があるようです。



記憶にはないですが、
わたしが場面緘黙症を発症したきっかけが、
保育園という知らない人たちばかりの場所に行ったことで、極度に不安や緊張、恐れを生じさせ、
場面緘黙症の症状が出たのではないかなと思っています。


でも、同じ環境の中で過ごしていると人に慣れていきます。


保育園や幼稚園では、話せない中でも休まず登園していました。
その中で、先生や友達との関係でつらかった経験もありました。
でも割と遊ぶことが好きな活発な子供だったなと思います。

そして、小学校に入り、わたしは声を出して返事をしてみたいという思いを持ったことがありました。


先生が一人ずつ名前を呼んで出欠をとった時、
わたしの番になり、返事をしてみたのです。


すると、同級生の子たちの「えっ」というような驚いた様子が伝わってきました。


その状況がわたしを極度に緊張させたのか、その「はい」という一言だけで、また元のわたしに戻りました。


そこからは家族以外の人とはずっと話せませんでした。


でも先生や友達はわたしが話せないことを理解してくれていて、学校でも声を出すことを強要されたり、いじめられることはありませんでした。

一部の子達からは、嫌なことを言われることもありましたが、一緒に遊んでくれる子がいたので、嫌な思いを抱いても、そこまで深く気に留めることはなかったのかなと思います。

わたしが特に辛かったと思う経験は、
小学校4年生あたりから中学校の終わりまで続いた「全緘黙症」という経験でした。



これは、「すべての場面において声を出したり、話ができない」という症状で、家族とも話ができなくなりました。



わたしが「全緘黙症」になった理由があります。


それは、父との関係性がうまくいかなかったからでした。


子供の頃のわたしから見た父は、どこか威圧感もあり、父に対して緊張してしまうような存在でした。


わたしが話が出来ないことに対して特に何か言われたことではないですが、親戚の人や他人に挨拶や会話ができなことに対して、

「出来ない子」と思われているような感覚を父の態度や表情から感じ、「話ができる子」として人と関わりたいけれど、
関われない自分に父への申し訳なさと引け目を感じていました。


当時、実家では親戚の人との会食が年に何度かあり、その時にそんな感情が特に湧き、
その度につらい思いを繰り返していました。


小学校4年あたりからか少しずつ、家族とも話をしないという選択が自分の心を守るための手段になっていきました。


そして、そんな集まりが終わって話をした時、
姉に「親戚の人帰ったら話するんやな」と言われました。


そこでわたしの中の苦しい思い、つらい思い、
くやしい思いが湧き上がりました。


「わたしだって話をしたい!」


話をしたいけどできない自分がいる。


このつらさから逃れる方法、自分の心を守るための方法。



家族とも話をしないことが、このつらい思いから逃れられるんじゃないか。


それが、わたしにとっての「完全に家族とも話をしない」という選択でした。


全緘黙症になった時は、自分からその方法を選んだという形でした。

当時のわたしには、その選択肢しかありませんでした。



でもそれが続くと、今度は「話がしたくても出来ない」という形になっていくのです。



どのような状況でも、全く声を出せない。
それがこんなに辛くて苦しいものだとは思いませんでした。



家でも学校でも声を出したくても出せない。


笑う時も泣く時も、咳をする時も声を出せない。


本当は声を出せるはずなのに・・・。



でも声を出したくて、家族がいない時に、声を出してみたことがありました。



自分の声すら忘れていた声。



かすれながらも出した声は、とても勇気が入りました。


声を出すと自分を取り戻したような感覚になりました。



歌を歌ってみました。
ぎこちないながらも、自分の声の感覚を感じながら。

そんな時、祖母が帰ってきており、わたしの声を聞かれていました。



わたしは恥ずかしくなり、そこから誰もいないと思っていても、声を出すと誰かが聞いているかもしれないと思い、
誰もいなくても声を出せないようになりました。


そんな状況が中学校の終わりまで続きました。


学校でも家庭でも全く声を出せず、気が狂いそうになることが何度もありました。


赤ちゃんの頃からアトピーを患っており、わたしの皮膚もボロボロだったなと思います。


この全緘黙症の経験が、わたしにとって一番苦しかった時期だったなと思います。



家族はわたしが話をしないことに何も言いませんでした。
ただ見守ってくれていたのだと思います。



そして高校進学のとき、この苦しさから逃れたくなり、「話がしたい」と思うようになりました。



この機会が話ができるチャンスだと感覚的に感じたのでしょう🌸



誰も知っている人がいない、少し遠くの高校を受験し、無事合格できました。


新たな環境での学生生活。



出欠をとるときに、心臓がバクバクしながらも返事をすることができました。



そして、自分から同級生に話かけることは出来ませんでしたが、
初日が終わろうとしたとき、
ある同級生の子から、


「同じクラスの子やんな?明日から一緒にお弁当食べようよ」


と話しかけられたのです。



わたしは話しかけられたことに頭が真っ白になりましたが、


渾身の勇気を振り絞り、



「うん!」



と声を出しました。


その子は、過去のわたしを知っているわけではないので当たり前ですが、驚くそぶりもなく笑顔で返してくれました。
その反応が、わたしをどこか「話してもいいんだ」という感覚にさせてくれました。


そこから、一言二言と友達に声を出すことができ、話をすることができるようになりました。


登下校でたまに一緒になる友達ができたり、
友達が友達を呼び、仲の良い友達ができました。


そんな中でも、家族とは変わらず話が出来ませんでした。


でも、学校では話ができるようになっていたので、
わたしの心は少し楽になっていました。


高校3年生あたりから、家族とも声を出して笑ったりと徐々に声を出せることができるようになっていきました。



そして、「話ができる」というまでになれたのが、高校生活の終わりでした。


こうして、わたしの長い緘黙症時代が幕を閉じました。


わたしにとってこの3歳から18歳までの場面緘黙症・全緘黙症時代はとても貴重な経験です。



克服後は、介護の専門学校を経て介護の仕事に就職をしましたが、
「伝える」ということに支障があったり、ずっと過去を隠し生きていたのでとても生きづらさを抱えていました。



でも、ひとまず場面緘黙症を克服したことはわたしにとって大きな一歩でした⭐️



また、いろんなエピソードを書いてみたいと思います。



読んでくださり、ありがとうございました😊

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