魔法使いの子供たち

 日銭稼ぎをしていると、まっこと本を読んだりだらだらしたりする時間がないと感じるし、気持ちの余裕がないと小説を書くのは難しい。


 それで家にこもっているからといって、何かができるとは限らない。何もできないで終える空虚な一日の重みは、年々深くなっていく。雑用で向かうサラリーマン街はなんだか白々しい顔つきだ。サラリーマン街が背広の群れが何だか異質に見える俺だけれど定期収入は欲しいというか自分で稼がねばならないわけで、それができないというのは何だか気がめいってくるのだが、それでもふらふらしていないとおかしくなる。一生ふらふらしていたい、等と無責任なことを考え、それが現実逃避でしかないのだと自分でも思いながらながら、なじめぬ土地で聞くBIS階段はなんだかキュート。


https://www.youtube.com/watch?v=rukQPyZrV8w

BiS階段 - PPCC / nerve / eat it


  テレビでナウシカが放送されるらしい。家にはテレビがない。だからレンタルした。ナウシカを見るのは何年ぶりだろう? たしか、最初に見たのは、小学生の頃にテレビで放送したからだと思う。自分でレンタルしたのは初めてだ。


 ジブリの映画は千と千尋の神隠しまでは好きで見ていた。その後の作品も、一応レンタルで見たのもあるが、自分の中でジブリといったら千と千尋までで、それは初期のジブリ作品がどうだ、等といたいのではなく、小さい頃に見たファンタジーの豊かな記憶が懐かしく、ファンというわけでもないのだが、たまにその時の記憶に世界に会いたくなってくるのだ。

 久しぶりに見たナウシカは、ナウシカの敵対している組織の意見も一理あるのでは、と小学生の頃には感じなかった感想もわいてきた。でもナウシカはかわいい、いい子だと思う。

 昔のジブリの映画を見ていると、小学校の時の美術の先生を思い出す。

 植松先生。黒のワンレン、濃いめのメイク、銀のアイシャドウ、黒い丈の長いスカート。北風のようにひんやりとした、落ち着いた声。小学校の先生というよりも、アーティスト、いや、どこかの魔女といった雰囲気の人だった。その頃の俺は、アーティストが副業で学校の先生をすることがしばしばあることを知らなかった。

 そして植松先生は非常に優しい先生だった。授業中に優れた生徒の作品があると、皆に見せてその感動を伝えてくれた。先生はとても人を褒めた。先生が心からその言葉を口にしていることはすぐにわかった。というか、学校の先生でこんなに人を褒める人はいなかった。優しい魔女なんて、なんて素敵な存在だろう!


 先生が美術室に飾っていた複製原画、シャガール、クレー、ミロ。その絵のことを俺ははっきりと覚えている。先生は「図工」の時間ではあっても、その絵を鑑賞して好きな点、気づいたことについて紙に書く、鑑賞する授業をした。

 先生はみんなが静かに絵を描くなら音楽をかけてあげますからねと言って、ジブリのサントラをかけてくれた。教室が静まり返り曲が流れるとゆっくり、夢見心地になり「あ、今ラピュタだ」「魔女の宅急便かな?」「あ、今の曲なんだっけ」と心の中で思った。

 先生は美術と、そして子供たちが好きだったのだと思う。子供のことが好きな先生が、俺は好きだ。仕事を楽しんでいるから。仕事に真面目だから。俺は学校が好きではない。良い思い出よりもはるかに嫌な思い出がある。でも、こんな素敵な先生がいたという出会いがあると、学校の全てを否定なんて絶対にできない。勿論他にも良い先生、お世話になった人もいるし、二度と会いたくない人も。学校は人の集団は嫌いではないけれどやはり俺にとっては居心地が悪い場所。

 小学校の時は担任の先生にしか年賀状を出さなかった。だから美術の植松先生には一度も葉書きを出さなかったし、彼女が本当に素敵な先生だったと気づいたのは20歳を過ぎたころだったと思う。

 たまに、もう会えない好きだった人のことを考える。俺は気が多くて飽き性で情緒不安定なので(ひどいな)折に触れて好きだった人のことを思い出し、忘れる。それがいいことかどうかは分からないが、自分の生き方を変えるのは容易ではないのだと、おっさんになって気づく。

 過日、世話になった人に会う用事があって、百貨店でセールをしていて、砂糖菓子、アップルシナモンほうじ茶、栗最中、ミカンのジャム、らを目につくままに買い求め、これらを全部あげるのは「ちょっと見つけたから」等と口にするには量が多く何だか気恥ずかしい思いがしてきて、でも「セールだったから」という言い訳と共にそれらを渡す。相手が喜んでいたならば、深く考えることはないのだきっと。

 別の日、雑貨屋の前を通り、調子に乗って、小さい子のいる人へ猫のパペットと花柄のペーパーナプキンも買い求め、何だかそれも面映ゆくも、あまり考えないようにしよう、と布製の猫の毛を撫でながらふと、川端康成がノーベル文学賞の時に引いた白楽天の詩を想起する。

「雪月花の時 最も友を思ふ」

 琴や詩や酒を楽しんだ友はみな分散して消息も聞かなくなってしまった。
 雪の朝、月の夜、花のときになると君のことが思い出されてならない

 

 忘却は恩寵、とは川端の言葉だが、その言葉は学生の俺の身に深く染みて、その言葉を想起すると冷たい伽藍に抱かれているような心持になる。

 忘れてしまう過ぎ去ってしまうただ、季節の移り変わりの折りには誰かのことを君のことを思うのだ。

 にして支払いは常に発生して待ってはくれない。ぼんやりと、家にこもっていたいのに。ロマンチック・センチメンタルは学生の為のゆりかごかもしれないが、幾つになってもそれはお子様ランチのような使い古しの毛布のような気恥ずかしい輝きをたたえている。

 

https://www.youtube.com/watch?v=5_dqFkHvzeA

キュート・ポップ ヒゲドライバー

言ったり黙ったり 飲んだりこぼしたり 明るく情緒不安定

否定してるとキリがないから 全部うけとめていたいな

やましいこともなくはないから 全部抱えていたいな


 それで、何であっても、キミが好きだと歌うとてもキュートな歌。

 好きな気持ちがあるならばきっと平気なんだ今は。小さい頃からのか細いインスタントな魔法。俺に魔法を教えてくれたのは、多くのもう会えない人達。


 

生活費、及び返済に充てます。生活を立て直そうと思っています。