見出し画像

64.教話雑感(3)-天理教と献金-

◆教話「金と天理教の問題」

学間をしたというインテリ型の人たちが、よく言う。
「天理教のお話はよく分かる。(中略)かなの教えを創められた教祖のお心持ちには全く敬服のほかない。だが一つは道を伝える先生たちの誤りと思うが、わけの分から ない人に無理にでもお金を出させる。あれだけは良くないと思う。あれはやめるべきだ。 金を出させるのを悪いと言うのではない。 金を出すのは結構だ。だがいやな思いをして、 出したくないのを、なんとか出させようと無理をする。あれがいかん。あれでは文化的な宗教として伸びないだろう。世界宗教になれないのではないか。と、私は天理教を思う上から心配するのだ。相手の人に十分に分からせて、納得の上から喜んで出すよう導くべき だ。あの無理がいかん。」
と。さすがに学問のある人の話は立派である。大学出の道のよふぼくたちは、この話にたいていは同感する。双方が世間の言う合理主義者だからである。理解のいかないことはやれない。もとより当然である。
(中略)
なるほどおぢば帰りも結構である。お金を出すのも、まことによいことだ。お道の理合いもよく分かった、と独りで承知もし、感心もする。 だから帰りもすれば出しもするかといえば、それはしない。今は時と金はないが、いずれその時を与えられたら、言われるとおりの、よいことをする、と言うのである。郡山の薄皮饅頭がうまいと説明されて、目前に百個並べられる。 自分もそうだろうと承知もし感心もする。だが、 ながめただけでは腹も太らず、うまくもない。 一個食べたら、そのうまさを知って舌鼓を打つ。 五つ食べたらお腹が太って足納(たんのう)する。「三ツみにつく」。実行しただけが身につくのだ。
(中略)
金に対する天理の悪評が地上から消え去り、 いわゆる文化人たちから天理教もすがすがしくなったと言われる時が来たら、それは天理教がよくなったのではなしに、天理教のよふぼくたちが信仰的に堕落した時なのだ。人をたすけることよりも、自分の顔を大切にするようになったことの証明だ。人をたすけることをせず、理合いを教える学者になり澄まして、よふぼくの本命を戸棚にしまい込んだ証左である。
(中略)
非難と攻撃、嘲笑と圧迫、金と天理教の問題は、かんろだい完成のその日まで必ず続くであろう。

柏木庫治選集第2巻「むこうばい力」より

雑感

おつくしに関する柏木庫治先生のこの教話に触れた時、今日のおみちで説かれているものとの隔たりの大きさに愕然とした。世間の風潮に迎合せざるを得ないでいる現在の天理教とは、まるで次元が違い過ぎる。

「今は時代も変わり、天理教がこれまでやって来たようにはなかなかできなくなってきた」ということを理由に、世の中の人々が納得するような、見栄えの良い生き方を選択する天理教人が圧倒的多数になっているような気がする。

しかし、この「金と天理教」の話から想像するに、こんな理屈が通用する時代なんてそもそもなかったのではないかと感じる。いつの時代にあっても、狂気として人々の目に、耳に映っていたのではないだろうか。

そんな中を信念をもって貫き、道の教えを伝え広めていった先達が大勢いたからこそ、天理教団の過日の隆盛があったのかもしれない。

価値観は時代変遷の最中にあって、いとも簡単に変転する。

そこを考慮せず一時の風潮に基準を合わせ物事を判断するのは実に危ういことであるとも言える。

一つ、その極端な例として、第二次大戦時に、当時信徒数日本最大の宗教教団であった浄土真宗大谷派が、

罪悪人を膺懲(ようちょう)し、救済せんがためには、殺生も亦、時にはその方法として採用せらるべき

昭和1年8月本願寺計画課発行『仏教と戦争』より

と、今日では考えられないことだが、 権威ある伝統宗教が時代の波にのまれて戦争と殺生を公式の場で救済方法の一手段として認めた事実がある。
移ろいやすい世の流れに基準を置くということは、不確かなことでもあるという具体的先例ともいえよう。

そういった一時の風潮を頼りとせず、どこまでも神の教えに基準を置くべきなのである。


余談

この雑感を書いていた当時はまだ多少尖っていたのでこういったことに言及していたが、やはり今日の宗教社会問題を前に、これだけのことを大々的に説くというのは相当勇気がいることだと感じている。このSNS時代、迂闊なことを言ったら瞬く間に拡散され炎上しちゃうわけで。

私がシンパシーを感じているクリスチャンにして評論家の若松英輔氏が、さる宗教問題を討論する番組において、「これだけは間違いないことですが、神様がお金を欲しがっているわけじゃないんです」といった要旨の発言をしいていて、妙に胸に突き刺さるものがあった。

いやそう、そうなんだよ。

神様は別にお金を積まれることを望んでいるわけじゃないんだ。


そもそも神様ってお金つかえないんだし。

お金積まれて嬉しいのって、神様じゃなくて、その側に侍る人間なんだよね。むしろ。


だからといって
「お金を献金したり御供えする必要はない」
なんてことを言いたいわけじゃない。

「お金はけっこう、あなたのできる精一杯の真実で十分です」
なんて言われて、その精一杯の真実をお金以外の形で表現できる人ならともかく、日々お勤めして仕事しながら生活費を得て生きている人にとって、お金で尽くすことの方が案外シンプルで合理的な表現方法なんじゃないかと思っている。

一般的な生き方をして、仕事をして生活しながら信仰して、精神性を深めることもできて、おさづけもばっちり効いて…なんてそんな人なかなか滅多にいないような気がする。

一見、信者さんからの御供え等で生活する天理教人は弱い生き方のようにも見えるが、出家者(お道でいうなら布教おたすけに専念する人)こそ不労所得で生きてなんぼみたいなことをブッダが言っていたっていう話もきくし。

精神世界を生き、精神世界の理を説くものにとって、人々の血と汗によってつくられた真実の御供えこそが純粋なガソリンなのかもしれない。

【2015.8】


ここまで読んでいただきありがとうございました。
内容きわどいから炎上したりして(笑)
それではまた(^^)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?