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39.本日の雑念(4)-一手一つが分断を助長する?-

先日、私の大教会では“交流実働”という取り組みが発案され、全教会実施が即決致しました。

“交流実働”とは何ぞや(゜o゜)??


それは次の通りです。

・9月には「全教会布教推進月間」が開始されるが、部内教会を見渡せば、布教実働へのモチベーションにはかなりの格差が見られる。バリバリ布教実働している教会もあれば、全くと言っていいほど稼働していない教会もある。
・このまま9月を迎えても思った程の実働状況は見込まれないだろうと予想。これの改善策として、部内教会を数チームに分けて、チームで集まって定期的に実働を促す。チームは敢えて系統をバラバラにしてユニットを組み、ここに“交流”の要素を加える。
・具体的には6~8月の3か月間は最低でも月3回チームで集まる日時を相談し、実際に集まって布教実働をする。その際に、チームのリーダー教会(主に大教会直轄)が実働参加者名・実働内容・戸別訪問件数・リーフレット配布数をまとめて大教会へ提出。
・そのまま9月に入ると本格実働期間として、チーム実働を継続させつつ、本期間中はチーム同士での競い合い(件数や実働回数・述べ実働者数)要素を盛り込む。



な、なんじゃこりゃあ…(;´・ω・)


上級の会長さんからことのあらましを聞かされ、困惑を隠せないピーナッツ。さっそく既に動き出しているチームもあるとのこと。
“交流実働”なるものの詳細を伺うに、またまたとんでもない動きが始まったなと感じた私は、率直な思いをnoteに投稿すべくパソコンを開いてキーボードを叩きます。

以下は、ほぼほぼピーナッツの私的感情であり、根拠となるような文献や識者意見などはありません。
独り言です、要するに。


半強制的合同は“隣組”の意識を生む

“交流実働”策からとれる大教会布教部の狙いは、

・布教実働が疎かな教会を、活発な教会と組合せて動かしていく。
・布教に慣れている人達の姿を見て、やり方を参考にしてもらう。
・数を報告したりチームで競う要素を盛り込むことで、動かない教会が動かざるを得ない状況を作り出す。

こういう流れをつくりたかったからなんじゃないかと思う。


うーん、これは布教部サイドが最善手と錯覚した悪手を打ってしまったんじゃないかぁ…( 一一)


そもそもなぜ、布教実働に各々の差があるのか?


そこには、二つの原因が考えられます。


一つは、これはいま、教会長夫妻、教会運営に携わる人、教会、それらの“意識”や“在り方”がシンプルに多様化しているからなんじゃないかと思うんです。

以前なら、“神名流し”“路傍講演”“戸別訪問”という三大スタンダードをどれだけ盛んにやっているか等が教会の布教力を測る基準であったり、何なら“教会の存在意義そのもの”だと認識されていたんじゃないかと思いますが、現在はこの考え方は必ずしも的確ではないと考えています。

一万あったら一万通りの教会のスタイルがある。


コロナ禍を機に、無意識下では渦巻いていたそういうものが蓋を開けて堂々と姿を現し出しました。
現在ではこういうことを言っても、それほど奇異な目で見られることもなくなってきたんじゃないかと思っているのですが(どうだろ??)。

むしろ、一万通りの個性を無視してひとつの型にはめていくことの方がヤバい方向性のようにすら見えてしまいます。私には。

“神名流し”“路傍講演”“戸別訪問”がダメだとか、古いだとか、そういうことを言いたいのではなく、“そうじゃない教会・教会長のいろんな別の在り方もアリだよね”ということが言いたいわけです。

チームをつくって布教実働の場を設けるのであれば、競うなどもっての他、チームは「それに参加すればスタンダードな布教活動をすることができる」「あくまでもやりたい人が集まればいい」という機会や選択を与える自由の下でやってこそ良い効果が見込まれるのではないかと感じています。


しかし、この“交流実働”におけるチーム編成が持っている性格は、戦時下に組織された隣組の要素や匂いをどこか感じてなりません。
隣組は身近な相互の課題対処と同時にお互いの監視が目的とされます。
ここでの監視とは「ちゃんと布教実働しているのか、ズルして怠けていないか」等々。参加者名や実働内容を大教会に提出しなければならない辺りがいかにも。
しかし、こういう意識が作用する共同体って、“勇み”とは全く真逆の流れで、ただただ単純に、

“神様が働きにくい(介在しづらい)”意識の流れでやっている布教活動

になっちゃうんじゃ…と懸念しているのですが、どう思います?


そして布教実働に格差が生じているもう一つの原因。


それは最早、教会・教会長が既にすっかりその名を形骸化させ、力を失いきって本来の形を成せていない段階に陥っているからなのでは? ということです。


あくまでも私から見えている限りにおいての周囲周辺の教会の姿ですが、月次祭は教会長さん本人や家族を含めてほんの3、4名で細々とつとめていたり、80代の老会長夫妻でギリギリ教会を維持していたり…実態は淘汰をただ指をくわえて待っているだけ、消えゆくのは時間の問題、状況打破の策はなく、だけどそういう暗い未来は見ないよう、考えないようなふりをしていることでいま現在をどうにかこうにか平常心で保っている。
…そういう厳しい現実の局面で、布教実働もくそもあったもんじゃない教会の姿を正視していないから、やれ実働していないだの、どうだのと、いたずらにそういう視点でばかり物事を見たがるんじゃないかなと、そう思ったりもするんですよね。
 


“一手一つ”が分断を助長している?

私の大教会では、“形の一手一つにやたらこだわりたがる”という性格が目立ちます。

具体的なことは言及を避けますが、月次祭時のおつとめ以外の部分での細かい作法などをマニュアル化し、部内全てに統一を促してきます。個人的にはけっこうどうでもいいところの統一にこだわっているように見えています。

“全員でなにか同じことをやる”
“全教会でなにか同じことをやる”
“数を競い合う”

こういうことが好きな大教会なんです。

おそらく、形を統一していくことで“一手一つの精神”が培われていく、という考えの下での実行なんだろうなと感じています。

でも私は、それって違うんじゃないかなぁ~って思うんです。


例え話をします。
あくまでも例えです。


“大教会をあげておぢばに帰参しましょう”という方針が打ち出されたとします。そこに大教会は「楽々でのおぢば帰りでは意味が薄くなるので、飛行機は利用せず、陸路での帰参に限定します」という変なところでの縛りを入れたがるんです。
本来心を込めるべきは「おぢばに帰ろう」なのに、「陸路での交通を頑張ろう」に視点が少しだけズレるんです。そしてそういう形の均等を持って“一体感”という錯覚を持とうとする。


ピーナッツはこう思っています。

形・統一・集合にこだわることで、かえってそこにいる人達の意識が分断していく。



「○○大会」「××の集い」に集まろう!
ただし、当日は所定のピンクのTシャツを着てきてください。


……こんな妙なところで統一感を出そうしたら、集合場所に集まるという意識よりも、「なんでそんなTシャツ着ていかなきゃならないんだ」「え、持ってないよ、事前に買わなきゃダメなの?」という違和感を覚える人が出てくるでしょう。

見える部分を同じようにしよう、しようと促せば促すほど、かえって反発を生んだり、意識にズレが生じてきて、結果的に分断が助長されていくという悲劇が待っている気がしてしまうわけです。

そういうところで摩擦ばかりを繰り返していると、段々しんどくもなってくるし、面倒臭くもなってくる。そういう煩わしさから解放される一番手っ取り早い方法は思考停止することです。



いちいち何も考えなければ煩わしくもないんです。
ただ黙ってお上の方針に従ってさえいれば。
ストップブレイン。
思考停止して気楽にやりましょう。


そんなわけないですよね?



そんなわけないんです。
そういう為の年祭活動じゃないんです。


今回はこれぐらいにしておきます。
次回も引き続きピーナッツの雑念を書きたいと思っています。
“信じる”ということと、“思考停止”について。


長々と駄文にお付き合いいただきありがとうございました!
それではまた(^O^)


【2024.7.19】



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