見出し画像

43.“我慢”と“たんのう”はどう違うのか

なにか理不尽な思いをし、腹の虫がおさまらない時、このお道の中で生きる人なら、きっと誰でも一度は言われたことがあるだろう。

「たんのうしなさい」と。

……そんな言葉をかけられたって、多分あんまり意味がないのに。

そう説かれたとて、実際はなかなか如何ともし難いことだ。
如何ともし難いことなのに、「たんのう、たんのう」と、安易に説かれ過ぎている感は否めない。


“我慢”と“たんのう”の違い

先人・岩井孝一郎氏は“我慢や忍耐”と“たんのう”との違いとして、前者には“かすが残る”と自著の中で述べている。

嫌なことがあった時、ただ腹に飲み込みグッと堪えているだけだと、消化し切らずに“うらみ”や“はらだち”といったほこりを少々積んでしまっているのだという考えだろうか。このわずかなほこりのことをおそらく岩井氏は“かす”と表現しているようだ。


“たんのう“の境地へと足を踏み入れるのに必要なことは努力ではない。


たとえ歯を喰いしばって「たんのうさせてもらおう」とか言っていたとしても、その時点でそれはもう既にたんのうではなく我慢であり忍耐だ。


“たんのう”の境地には心の澄み切りが肝心だ。

澄み切っていく心境への入り口は、努力の先ではなく、納得の向こうにある。心底腹に落ちたものには、ほこりが芽生えたりはしない。

そして納得していく上で通らないわけにはいかないのがなんといっても“いんねんの自覚”だろう。



良いことは隠し、悪いことは明るみに

岩井孝一郎氏は次のような教話を残している。

『よい種は土の中に 悪い種は道路に』
よい事は人に話さず、隠してしまう。悪い事をした時は人に話をする事です。悪い事をした時にさんげをすると、ちょうど悪い種を道路に蒔いたようなもので、十蒔いて十より生えないから安心です。よい事をして、隠しておくと、よい種を土の中に蒔くが如しで、一時は姿をなくするが、やがて天に届くような大木となって、子孫末代守られるのであります。
ところが現実にぶつかると反対になり勝ちであります。よい事をした時は人に話したがるし、悪いことを隠したがります。この場合、せっかくよい種を蒔いても十の者なら十しか生えません。悪い種は土の中ですから、やがて天に届くような大木となって、子孫末代滅びる運命をいただきます。
よい事を隠して、自分の悪い事をいうのは、自ら苦労を追いかけて、苦労をつかまえて苦労するのですから、十の苦労であっても三の苦労しか感じません。反対によい事をいって悪いことを隠すのは、苦労は嫌じゃと、苦労に追いかけられて、苦労につかまって泣き泣き苦労をするから、三の苦労でも十の苦労のように感じるのであります。

「岩井孝一郎教話集」より



良いことは隠し、悪いことは人前にさらけ出す。

苦労を自らの意志で追いかけてでも買う。

でないと、たとえどんなに逃げたとしても苦労から追われて捕まえられるハメになるのだという。


そして、蒔かない種は、生えては来ない。
蒔いた種だけが生えて来る。

それはつまり、“理不尽な仕打ち”や“どうして俺だけこんなことに”といった俄かには受け入れ難いイベントが起こってきた時、それは心当たりのない理不尽でも不遇(アンラッキー)でもなく、時空を超えてもうすっかり忘れてしまった古い過去から背中を捉えて迫ってきた、起こるべくして起こってきたこと。

…といえるものなのかもしれない。


おかげさまで代を重ねての信仰なもので、親々のお徳に護っていただいてどうにかこうにか日々をすごさせてもらっているけれど、忘れちゃいけないことはたくさんある。

だからといって、“お詫び漬け”、“反省しきっきり”なのも、それはそれでなにか違う。

よく、「これで少しでもいんねんが切れる」「いんねんを切らなければ」と、“いんねん果たし”にばかりに着目しそれを目的化している人を見ることがあるけれど、そればかりじゃ信仰が暗くなる。

いまあるもの、もう既に持っていることにたくさん“気づき”、
置かれている状況、恵まれてきたことに“感謝”し、
受けてきた“恩”を忘れず、それに報いたいとする気持ち。

“一家のいんねん・個人のいんねん”だけでなく、もっとその大前提にある、誰でも神と共に陽気ぐらしできることを与えられている“元のいんねん”が思案の根底にありさえすれば、我慢はきっと“たんのう”へ。
スッと腹に落ち、心濁さず澄み切ってー。


…ってなればいいけれど。


理想は理想。
言うは易し、行うは難し。

そうそう簡単にはいかないから、人間って面白いんだよね。

【2014.5】



おまけ

「ならん中たんのう」って言葉と微妙に矛盾しているような内容だよなぁ…って思いながら書いていたピーナッツ。
詰所での午後の事務所はさほど忙しくもなく、義弟がこれからやってくるKОGの団体のしおりを修正している横でnoteを更新しております(・ω・)

おぢばの街を自由に歩きまわれたら誰か知り合いにでも会えるかもしれませんが、詰所の中からほとんど動くことのない今回のひのきしんではおそらくそれも厳しいでしょう。

【note.42】のおまけページで触れた〇〇さんは今日も詰所のロビーにいます。普段の生活の中で関わりの深いある若い男性のことでお悩みのご様子。
本当は自分のまわりから遠ざけたいけれど、それをやったらダメな気がすると言って頑なに耐えようと悲壮感を滲ませる彼女。色んな人にご自身の今置かれている境遇や苦痛を聴いてもらいたいのでしょう。

「おやさまはどんな人でも受け入れたっていうでしょう? だったら私も、いくらその子が嫌でも自分の好き勝手な気持ちだけで遠ざけるわけにはいかないと思って…」

(ははーん、あれか。さっきおやさま物語読んでたから、きっと怠け者の作男のことを自分の状況にひきつけているんだろうなぁ…(・ω・))

ま~、でもアレっすよ?
おやさまは好きでやってたと思いますよ。
「ホントは嫌なんだけど」みたいな、嫌々を我慢して受け入れていたわけじゃないから、○○さんがいっとき本心を偽っておやさまの真似したって、いずれボロが出てそれもできなくなるんじゃないですか?


ピーナッツのポロっと放つひとことに、再びハッと気づかされたように固まる○○さん。
もしかしたら私と彼女は、今回出会うべくして出会い、なにかのメッセンジャーの役目を神様からおおせつかっていまこの場にいるのかもしれないとふと思った、そんな気分です。


なんてこと考えていると、炊事主任さんに万代まで買い出し行くのに送迎を頼まれたので、これから私はちょっくら詰所カーを運転してきます。


ここまで読んでいただきありがとうございました。
それでは、またぁ('ω')ノ



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?