31.心に差し込む光
ある日の夕方、いつものように神殿の掃除をしていた時のことだった。
上段を箒で掃いていると、先ほどまで雲に覆われていた空がひらけて急に明るみ、窓から斜陽が差し込んできた。
不意の光の中で見えたものは、空中を舞う無数の小さなほこりだった。
箒で床を掃いている時は、目に映る足元のゴミにばかり気をとられていたのだが、落陽によって照らされた空間一帯は、実にほこりだらけの姿を私に見せてくれる。
ふと、こんな風に感じる。
目を凝らさなくても、ふとした注意を傾けるだけで見て捉えることのできるものは“ごみ”だと認識され、掃除の対象となるけれど、“ほこり”は手をのばして掴んだり、両手を広げてかき集めたりすることは難しい。
つまり、“ほこり”とは元来目には見えない、見えづらいもの、意識しにくいものなのかもしれない、と。
私達は教えによって銘々の心の悪しきを払い、絶えず掃除を繰り返しながらの生き方を提示されている。
目立った欠点短所なら、改善の努力如何で克服していくことは可能なのかもしれない。
でも、“ほこり”だとそうはいかない。
見澄ませばそこにたくさんあるものでも、ひとつひとつの実体は些細でどれもそう簡単には見えない。
意識を向けることが難しい。
それでも、黙ってそれを放置していると知らず知らず積もり重なっていく性質のものなのだ。
そのよく見えないものを見つめる為に、信仰という光がある。
胸に差し込んだ光によって点検が可能となる。
傾きかけた陽の光の中で静かに舞うほこりを眺めながら、ふとそんな悟りが私の中を通り抜けていった。
【2013・秋】
おまけ
以前、地元布教者のサロン・誠錬寮(私はしばしば梁山泊と呼んでいたりもする。水滸伝の如く布教の猛者が寄り集うことを願って)に、仕事を定年退職して志願入寮してきた60代のある布教所長さん(Aさん)がいました。
彼のすごいところは、入寮期間中に通い先となったとある老婦人からタダで軽自動車を譲り受けたことです。
しかしよくよく話を詳しく聞いてみると、納得できるものがあります。
というのもこのAさん、入寮の直前にそれまで自分が乗っていた車を、足を探していた友人にタダで譲ってきたのだそうです。
そんなことしたら、ここを終えてから車がなくて困るじゃん。一体どうするつもりだったんすか(;´・ω・)?
と疑問を投げかけるピーナッツに、
「なぁに、その時はその時よ。まぁどうにかなんべ」
と、何の算段も根拠もなくそう考えていたご様子でした。
そんな会話の遣り取りからしばらくして、先述の車をいただく話が出てきます。それも、以前乗っていた軽自動車よりも条件が良い車のようです。
出したら出したなりにちょうど良くなっていく。
ちゃんと帳尻は合うのだから、そうそう困ったことにはならない。
毎日ひたむきに頑張っている布教者には、こういった様々な不思議がついてくるものです。
ここまで読んでいただきありがとうございました‼
それでは、また~(^^)/
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