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62.教話雑感(1)-万全の備えとは日々の理づくり-

はじめに

私が受け持っている会報誌の中でコラムと並行し連載していたのが今回から始まる“教話雑感”というコーナーです。
様々なお道の教話の抜粋文を取り上げ、そこからインスピレーションを受けて雑感を書き綴るというものです。
どうも私は、そういう類の文章を書くのが好きみたいです。

企画を通して自身、お道の様々な先人・先生方の考え・捉え方・悟り方・通り方を学ばせていただきました。

◆教話「三拍子そろったたんのう」

私が師と仰ぐ愛昭分教会2代会長夫人花井まさ先生(愛昭の信者さんは「おかあさん」と呼んでいる)は、物を生かし、人を生かし、時間を生かすことしか知らない道すがらを歩んでこられました。
しかも生かしっぱなし助けっぱなしで、一つも代償を求めたことがなく、人の難儀を見たら最後、自分のことを忘れて、その場でなんと不足に思われようと、愚痴を言われようとかまわず、おたすけされました。
入信当時は朝起き正直働きを座右の銘とし、朝3時に起床して町内・神社の清掃、道で荷車に会えばあと押しし、帰りにはいつも 風呂敷包み一杯のたき物をさげておられまし た。
(中略)
(昭和23年肺結核で入信し、教会に住み込んだ私に)おかあさんは、「肺を患う徳のない者が人並みではだめ。しっかり徳を積みなさい」と言われ、朝3時半起床で神殿掃除、調饌、献饌と朝づとめの用意をし、外回りの掃除をし、朝づとめ後、おかあさん先頭に近所のよし刈りに出かけました。
(中略)
一枚の紙、一粒のお米も大事に生かすよう仕込み、「私はケチで言うんじゃないよ。おまえたちが物を粗末にして、先で不自由するのがかわいそうだから聞かすのだ」とよく言われました。
(中略)
物のたんのう、身のたんのう、心のたんのうと、たんのうの中にも3つある。物のたんのうだけでは十分とは言えない」と聞かせてくださるおかあさん。そのお言葉通り自らが 三拍子そろったたんのうをされて、93歳の今日も、毎日元気におたすけに出られます。
昭和48年のオイルショックの折り、信者さんたちが油がなくなる、トイレットペーパー がなくなると買い占めを言い出した時、おかあさんは、「買い占めをする必要ないよ。今まで物を生かし大事にしてきたから、物に不自由する理はないよ」と平然としておられ、 事実、たくさんの信者さんたちが使用するトイレットペーパーや暖房用の灯油に不自由することはありませんでした。

陽気誌平成3年9月号「心の泉」より抜粋

雑感

近年、予想を大きく超えた規模の災害が頻発し、南海トラフ地震への警告等で、平素からの準備・備蓄が頻りに叫ばれている。

思い起こせば、東日本大地震当時も色々あった。私の地域は幸い地震の直接の被害はなかったものの、風評に惑わされた人々が慌ててスーパーに駆け込む様を目の当たりにしていた。高齢者を押しのけ若者がカートいっぱいに食料品を詰め込んで買い占める。陳列棚は瞬く間に空となる。混乱し慌てふためく人々の様子を眺め、人間の浅ましさを垣間見た心境だった。

目に見えない徳の世界を知らない(信じない)人達は、日頃蓄財に励み、衣食住の向上ばかりに心をつかい、それがうまくいっていれば、あたかも「自分達は順調なのだ」と錯覚しがちになりながら生きている。
だが、そういった人々はいざ非常事態に直面すると、途端に自分達や身近な者のことしか考えないような行動をとる。それはやはり、“陰徳”という天の預貯金の概念を知らないからなのだろう。

日々の徳積みなくして、万全の備えというものは果たしてあるのだろうか?

如何に災害対策のために種々の保険をかけていようとも、ある日突然、それと無関係に交通事故で命を落とすこともある。病に倒れることだってある。人間の考え得る方法の中に、本当の意味での転ばぬ先の杖なんて無いような気がする。

花井まさ先生は、日々物を生かし大事にしていれば、不測の事態が起こっても物に不自由する理はないと言っている。お道における「物を大切に」という心がけは世間一般のそれと画してここにあるように思う。とどのつまり、何事も平素の理づくりが肝心なのだ、と。



余談

転ばぬ先の杖というよりは、倒れてもまた起き上がる力を与えてくれるのが、信仰なのかもしれません。

天理時報178年5月24日号・岡田正彦「おやのこころ」より


学生時代のかつての恩師はそう語る。
“無病息災・現世利益を願うための信心姿勢は、お道の信仰の本質ではない”というメッセージともどこか読み取れる。

非常時、世の中は慌ただしく騒ぎ出す。不安を煽られる。
不確かな情報が入り乱れ、人々は心をかき乱される。

そんな時、信仰者の取るべき態度とは、一体どんなものなのだろう。

私は、そういう時こそ神様との一対一の向き合い、声なき対話を深める必要があると思っている。

この道の信仰とは、身上・事情・不都合を回避する神からの約束手形なんかではない。

天国や極楽といった遠い彼岸の理想郷へ誘われるものでもない。

病も、トラブルも、悩みも、迷いも、葛藤も、全てそのままあって、八つのほこりを積む人間同士がひしめき合い、だけど練磨もまたし合う。
現在とそう然程変わらない風景の中で、注がれる親心と自身とが確かに結びついて、そしてその中にも喜びを見出そうとしている、
そんな世界を生きる在り方なんだと思う。多分。

【2015.6】


ここまで読んでいただきありがとうございました。
9年前の記事なのに、不思議と現在にも通じる…。
それではまた(^^)

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