見出し画像

23.疑い切る心

“信じる”ってことの反対は、一体何だろうかと考えていた。

“疑う”なのだろうか?

…いや、違う。そんなんじゃないと思う。

そう、信じるの反対はズバリ、“どうでもいい”だ。

どうでもいい。
そしてその心情と共に深く結びついて離れないようにすぐ近くにあるのが、

“なにも思わない”と“なにも感じない”。

これ等の無生産ともいえる態度こそが、“信じる”の対極にある流れだと私は考えている。

友人・アーモンド君の言葉をお借りするなら、人間が堕落していく要素として、

“無気力“
“無感動”
“無関心”

これら3つが最も危険なキーワードとしてあげられる。
このいずれにも共通することは、そこからなにも生まれてこない、得るものがない、行きつく先はただただ虚無ばかりだということ。


では、それに対し改めて“疑う”とはどういった心的作用を生むのだろうか。

私はこう仮説する。

“疑う”とは、やがてより確かな“信じる”へと至るに必要不可欠な過程である。

…と。

“疑う”を経由せず簡単に“信じてしまうこと”は一見スムーズに見えて、後々些細なキッカケで、容易に別の何かへと上塗り更新されてしまいやすい。
「本当にそうなのか?」という疑念や問いを越えてこそ、より強固な信念が培われていく。


しかし、そこで気をつけなければならないのが、“疑う”という内的運動が始まった時、それを燃やし尽くすことなく中途半端に収束させてしまうことだ。
不完全な疑念はただ不足を積むだけで終わってしまい、それでは極めて不毛なエネルギーの浪費に過ぎない。

腹の底から納得できるまで自分なりの答えをさがし、決して立ち止まることなく疑い切った姿勢を貫くと、ある地点を境に、
“疑う”は“求める”へと姿を変えていく。
真理に迫るべく探求心となって昇華していく筈だ。

「素直」なのか、それとも…

私達、道の信仰者は頻りに“素直さ”を奨励される。

どんなことにも「はい」と応じること。
それも躊躇せず、己の考えを捨てての「はい」と言える人を、模範と見なす風潮が未だ根強い。

だけど、よくよく気をつけなければいけない。
その中身をちゃんと咀嚼できた上でのyesという応答なのか、どうか。

それは本当に、神の思いに沿った“素直さ”なのか。
それとも、与えられた筈の心の自由を虚ろにした“思考停止”なのか。

はき違えていないだろうか?

主体性を持たない、心を存分に動かすことを失った信仰はやがてふとしたことで簡単にカルト化していく。それは思考停止の先で待っている、避けられない末路だ。

私はそんな状態になど陥りたくはない。
あくまでも、自らの意志を軸に神様を求めたい。

もっともらしいロジックをかぶった外界からの雑音になど振り回されることなく、心の内側、一対一で教祖と向き合っていきたい。

【2013.5】



私は今でも確信している。
2013年当時、このコラムから私は“主体性”という言葉を用い始めた。

後に青年会本部「あらきとうりょう」誌等で“主体性”という言葉が登場するのはここからもう数年先のことだ。

自分なりに尖って論じていたことが、やがて青年会本部の出版でも論じられていく様を眺め「案外、自分の考えもそう突飛なものでなく、しっかり時代感覚的だったんだな」と再確認していた。
(ま、ピーナッツの方がちょっと早かったけどね(`・ω・´)ドヤ)

おぢばから遠い辺鄙なローカル某会報誌面で、教祖130年祭モードだった2013年頃から既にこんなこと書いていたんだから、なかなかじゃないですか?

さぁて、どうでしょうね。


ここまで読んでいただきありがとうございました!
それではまた(^_-)-☆

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?